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五月(4) [巻之一契機]

 その蝉について、昭和のはじめ、ちょっとした論争があった。 「閑けさや」の言葉から、少なからず一般が「一匹の蜩」であるかの印象を持っていた。
 なるほど、林の奥から響き渡るヒキヒキの声には趣がある。朝晩にそろそろ秋を感じる風が吹くころという印象だが、生態学的には矛盾しない。また、俳諧に静寂を求める日本人の文化心理として分からないでもない。
 ところが、そのところに齊藤茂吉が
 「これは油蝉であるに違いない」
 と論じて一石を投じた。
 対して東北帝国大学の教授で夏目漱石の弟子だった小宮豊隆が、
 ――それもまた否である。ニーニー蝉である。
 と反論した。
 油蝉のほうがいかにも暑い盛りのイメージだが、山形で生まれ育ち、歌人として芭蕉に特別の思いを寄せていた茂吉は「油蝉」にこだわり、また別の方面から「春蝉」説が示され、旧来の「蜩」説が再燃するなど、〔蝉〕の一語をめぐって句界が騒然とした。
 ややあって小宮が、
 ――新暦7月上旬に、山形では油蝉は出現しない。もっぱらニーニー蝉である。
 と、科学的根拠をもって論証したため、この論争は決着を見た。
 実際、梅雨明け間際の山寺を訪れてみるといい。全山を覆うニーニー蝉の斉唱は迫力がある。聞こえるのは、おのれの呼吸と蝉の声でしかない。
 実のところ芭蕉は最初、

   山寺や石にしみつく蝉の聲

 と詠んだ。
 のち、曾良が日記に書きとどめた自作の句を推敲して、「山寺や」を「閑けさや」に、「岩にしみつく」を「岩にしみいる」に代えた。
 この句の真髄は、この一語にある。
 芭蕉は蝉という生物が地上に這い出てわずか7日の命であることを承知していたであろう。残余の生命のすべてをかけて、その声を岩にとどめようとするかのごとき全山斉唱に、“閑けさ”を発見した彼は、まさに詩人であった。


【補注】


斎藤茂吉 さいとう・もきち/1822~1953。山形県出身。守谷伝右衛門の三男に生まれ、斎藤紀一の養子となった。東京帝国大学医学部を出て精神病学を研究する傍ら伊藤左千夫の門下に入り、『馬酔木』『アララギ』などで活躍した。歌集『赤光』『あらたま』などがある。精神病学者の斎 藤茂太、作家北杜夫の父であり、小説『楡家の人々』のモデルでもある。
小宮豊隆 こみや・とよたか/1884~1966。福岡県に生まれ、東京帝国大学でドイツ文学を学んだ。蝉をめぐる斉藤茂吉との論争のときは東北帝国大学で教授の職にあった。科学学的根拠に基づいて「ニーニー蝉である」と断じたのは1933年(昭和八)に発表した論文『芭蕉の研究』においてだった。

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