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幕末(5) [卷之三薄靡]

 万次郎が世に出るきっかけも、アメリカであった。
 嘉永六年6月、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が軍艦4隻を率いて開国を迫ったとき、幕府は万次郎を召喚してアメリカの事情を聴取した。その後、老中阿部正弘のお抱えとなり、幕府直参に取り立てられ「中浜」の姓を許された。貧しい漁師が直参旗本になったのだから、動天驚地の出世であった。
 安政四年に幕府軍艦教授所教授となり、万延元年に遣米使節の蕃所方通事として木村摂津守、勝麟太郎、福沢諭吉らと咸臨丸で渡米した。このとき、ホイットフィールド船長と再開し、「ともに感涙にむせんだ」と記される。
 維新後、1870年、大山巌、品川弥次郎らと晋仏戦争を観戦するために渡欧したが病を得て帰国、のちは不遇のうち、1898年、脳溢血のため東京市京橋区弓町の長男東一郎宅で死去。享年71。
 「ジョン万次郎」の通り名が著名だが、当人がこの名乗りを使ったのは一度だけである。フェアヘブンの町では現在も、毎年10月に「ジョン・マン祭」を開いて日米親交の歴史を語り伝えている。

 もう一つ、アメリカと日本の幕末をつなぐ逸話がある。
 鳥羽伏見の戦いで薩長連合軍勝利の一因となったミニエー銃である。
 当時、日本に輸入されていたのは欧米で旧式となったゲベール銃だった。アメリカの南北戦争で両軍の標準的な武器だったが、この銃が大量に中古市場に出た。
 先込式で、原理は15世紀の火縄銃と大きく違わない。音ばかり大きく、命中率が悪い。ところがミニエー銃は元込式で、弾に付いている火薬筒の雷管を打って弾が飛び出す。
 慶応元年六月、長州藩士の井上聞多と伊藤俊輔は、長崎でグラバーからこの銃を買い付けた。表向きは薩摩藩が仲介したことになっているが、実際は坂本龍馬の亀山社中が手配を整えた。
 井上は兵器購入の交渉を
 「お前の方が得意じゃろう」
 と伊藤に押し付け、自らは薩摩に入って西郷隆盛、大久保利通らと倒幕の段取りを計った。このとき、井上を謁見した藩主島津久光が、
 「余はいつ将軍になれるか」
 と下問して、井上が答えに窮したという逸話がある。
 一方、長崎では伊藤俊輔がグラバーとの間で銃と蒸気船を購入する取り決めをした。旧式のベゲール銃3000挺、新式のミニエー銃4300挺、蒸気機関で動く軍艦「ユニオン」号、しめて13万1000両である。
 ゲベール銃は爆発の音がむやみに大きい。これを一斉に射撃して、まず幕軍を怯えさせよ。
 次にミニエー銃で指揮者を狙い撃ちにし、敵がひるんだとき突撃せよ。
 まちがいなく崩れる。
 という戦法が、亀山社中から長州藩に伝授された。
 実際、鳥羽伏見の戦ではこの戦法が用いられた。
 薩長連合軍と戦火を交えたのが会津、桑名、彦根といった佐幕派に限られていたにせよ、幕府方は薩長連合軍が撃ち出すゲベール銃の音と白煙に兵卒が浮き足立ち、そこをミニエー銃で指揮官がねらわれた。兵卒の数と武器弾薬の量において劣勢だったはずの薩長軍が勝利を得たのは坂本龍馬によるところが大きい。

【補注】


晋仏戦争の観戦 明治初年、日本の軍人はヨーロッパの軍隊制度ばかりでなく作戦や用兵術を学ぶため、実際の戦争を見学した。このとき大山、品川、中浜らが観戦に出かけたのは、1870年7月1日に始まったプロシアとフランスの戦争である。フランスのナポレオン3世はこの戦いに負けて捕虜となり、フランスはプロシアに50億フランもの戦争賠償金を支払った。この戦いののちフランスは第三共和制に移行し、プロシアではウィルヘルム1世が「ドイツ皇帝」に即位した。
グラバー Thomas Blake Glover/1838~1911。1860年に来日し長崎にグラバー商会を設立した。幕末の動乱に乗じて巨利を得た武器商人という一面だけが強調されるが、イギリスの国益を代表する外交官的役割を備え、伊藤博文、井上馨、五代友厚、寺島宗則などの渡欧を援助してもいる。長崎市に残るその邸宅(グラバー邸)はオペラ『蝶々婦人』の舞台とされている。
島津久光 しまづ・ひさみつ/1817~1887。将軍にはなれなかったが、明治七年(1874)四月から翌年十月まで左大臣の位に就いて、実質的に国政を観た。ただ、その政治姿勢は保守的かつ独善的で、優秀なスタッフに担がれて初めて権威を発揮できる「殿様」に過ぎなかった。
ユニオン号 全長45メートル、排水量300トンの木製蒸気船。イギリスのロッテルヒーテ造船所で建造された。長州藩が資金を出し、薩摩藩の名義で購入、それを土佐脱藩の海援隊が操船するという「桜丸協定」が結ばれた。中国の上海に係留されていたユニオン号に7300挺の銃を載せて運んだのは、亀山社中に置かれた商社組織「海援隊」である。薩摩藩は「桜丸」と名付けたが、長州藩では「乙丑丸」と呼んだ。ちなみに海援隊亀山社中は飢饉に悩む長州に薩摩の米を運んで薩長連合を実現した。ユニオン号はのち瀬戸内海でイギリスの大型船と衝突して沈没したが、坂本龍馬は万国公法を盾に賠償金を獲得している。

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