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殖産興業(1) [巻之四曙光]

 明治政府の富国強兵策は、工部省と内務省がその中核を担っていた。工部省は工学校を設けて、西洋から工業技術を導入するのと並行して、鉄道や電信、鉱山、造船といった事業を官営で運営した。 工部省はのち、太政官制が内閣制に移行した1885(明治十八)年12月22日に廃止され、新たに設置された逓信省と農工商務省に分割・継承される。
 一方の内務省は、1870(明治三)年に大久保利通の建策によって設置され、農業学校や様々な試験場、育種場、畜種場を開設して、主に農業や畜産業の振興を図った。さらに生糸工場や製綿、製糖など第一次産業にかかわる官営工場を運営し、また海運業の助成や開墾の奨励などを司った。
 明治政府にとって救いだったのは、徳川幕府が莫大な資産を残してくれたことだった。その代表は伊豆・韮山の反射炉と横須賀、横浜の造船所であろう。幕閣の反対を押し切ってその建設を推進したのは、小栗上野介忠順である。
 同じ幕臣でも小普請組二人扶持の家に生まれた勝麟太郎とは肌が合わなかったらしい。幕府中枢はそのあたりを心得ていたのか、両人を相互に立てた。
 小栗は幕府の力を強めるためにフランスの力を借りようと画策し、将軍慶喜にフランスから取り寄せた将軍の軍服を着せ、多額の借款をした。対して勝は
 「塀の上を歩くようなものだ」
 と冷ややかに言った。
 ひとつ間違えば、領土をフランスに割譲しなければならない。
 慶喜が大政を奉還したとき、小栗は領地の村に隠遁した。江戸を去る前夜、小栗は勝に、
 「幕府は滅びても、この造船所が新しい日本国の財産になる」
 と言い残した。
 小栗が残した言葉は、その通りになった。幕閣の反対を押し切って横須賀に建設した乾式ドック(大型船を入れてのち、海水を抜いて船底を宙に浮かすことができる補修施設)が、日本海軍や海運の力を強めた。

【補注】


小栗忠順 おぐり・ただまさ/1827~1868。新潟奉行・小栗忠高の子。幼名は「順太」、通称「上野介」。外国奉行、勘定奉行、町奉行、軍艦奉行などを歴任した。直参旗本きっての英才として知られた。大政奉還とともに領地の上野国(群馬県)権田村に退き、農民にフランス式兵法を教えているうち、官軍に捕縛され斬首。生きてあれば首相の器とされる。

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