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水品と岩田(4) [卷之五靉靆]

 〈キーパンチャー〉

 余談だが、コンピュータないし情報システムの担当者が、「技術者」であると認識されたのは1970年以後である。岩田から以後、日本の企業で計算機を動かし、システムを作ったのは、経理部門であったり、機械設備の保守部門であったり、営業の第一線で活躍している人間であったり、あるいは法律の専門家であったりした。

 エンジニアとしての教育を受けていなかっただけ、経営や財務、生産、営業、事務手続きといった、コンピュータを適用する業務からのアプローチができた。純粋な技術者と実務者のどちらが最良であるのかは、いまだに〔解〕がない。
 水品は8歳年下のこの青年を、ことのほか目にかけた。

 最初は、女子事務員がやっていたソロバンの仕事をパンチカード装置に移行することでした。水品さんは足しげく名古屋までやってきて、いろいろ相談にのってくれました。

 岩田はのちにそう述懐している。
 水品は、同時に故障の修理方法も岩田に伝授した。セットするワイヤーの総延長は60マイル(9万メートル)以上ある、ということまで教えた。とはいえ装置をまともに動かすのは容易ではなかった。英文のマニュアルと首っ引きで格闘し、そろばん係の女子社員を選んで猛特訓して4人のパンチャーを養成した。パンチ業務を仕事とした初の日本人女性として、古田土(旧姓服部)きみ、堀田まさ、船橋つや、吉田星子の4人の名が残されている。
こうした悪戦苦闘ののち、何とか満足のいく表が作成できるようになった。
 「新入社員にしては、なかなか出来がいい、とほめられた」
 というが、自在に表を作成できるようになるのに岩田は数年を要している。ホレリス式パンチカード装置を使いこなすのは、それほど難しかった。
 岩田は統計会計機械装置を伝票処理ばかりでなく、生産管理や人事・給与計算など事業全般に活用することで、日本陶器の事業拡大に貢献した。
 また中部生産性本部の第2代会長を務め、中部地区における計算機の利用を推進した。「蒼明」を雅号とし、「ノリタケ」のブランドを世界に知らしめた。
 日本陶器に設置されたホレリス式統計会計機械装置の一号機には後日談がある。まず、設置されたものの日米間の電圧と周波数の違いから付加装置を新たに開発しなければならなかった。森村商会は陶製絶縁体で取引きがあった芝浦製作所(現東芝)に付加装置を特注した。本格運用に入ったのは1926年に入ってだった。
 ところが本稼働が始まって間もなく、一号機の集計装置は東京で開かれた森村商事の展示会に搬出され、翌1927年(昭和二)に戻ってきた。と思う間もなく、8月6日に倉庫から出た火災で電動パンチカード装置一台を残して全焼してしまった。日本陶器はこれであきらめなかった。1928年に改めてホレリス式統計会計機械装置1セットを設置している。企業体質に機械的な伝票処理が合っていたといえるかもしれない。
 ちなみに同社は日本陶器からノリタケ・カンパニー・リミテッドに社名を変更し、「ノリタケ」ブランドは高級陶器として知られている。第二大戦後、戦災から復興する中でいちはやくIBM社のパンチカード・システムを再導入し、以後、一貫してIBMマシンを利用し続けた。日本で最も長い歴史を持つIBMユーザーである。

【補注】


日本人初のパンチャー 4人の氏名は『森村一〇〇年史』に記載されている。ノリタケ・カンパニー・リミテッド広報室から資料提供を受けた。


巻之五 了



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