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弱電メーカー(2) [卷之六游魚]

〈岩垂邦彦〉

 吉崎とWE社の間を仲介していたのは、岩垂(いわたれ)邦彦という人物である。
 岩垂は安政四年(1857)に九州の小倉に生まれた。1882年(明治十五)、工部大学校(のち東京帝大工学部)の電気工学を卒業して工部省に入り、1886年にアメリカに渡ってエジソン・マシン・ワークス(EMW)社に見習い技師として採用された。EMW社が、のちに企業合併・吸収を繰り返し、ゼネラル・エレクトリック(GE)社となった。岩垂はトーマス・エジソンに師事した数少ない日本人の一人である。

 88年に帰国した岩垂は最初、「大阪電燈(のち関西電力)」という電力会社に技師長として勤め、同社第1号となる西道頓堀発電所を建設している。94年に独立して「岩垂電機商店」を設立した。EMW社の製品を輸入して販売するかたわら、日本におけるWE社の代理店にもなっていた。
 順調に進むと思われた吉崎とWE社の交渉は、吉崎が
 「当社の独自性が侵される」
 と懸念し、腰砕けになった。
 それというのは、WE社の製品はこのとき3菱商事が総代理店となって輸入されていた。
 吉崎が懸念を示したのは、合弁会社の設立に三菱商事を参加させると、主導権を三菱に奪われてしまうということだった。その対応をめぐって、交渉が決裂した。吉崎は三菱商事を排除しようとしたのである。1898年(明治三十一)5月、交渉は白紙に戻ってしまった。
 思わぬ事態の出来に岩垂は
 「ほかに人物が見つからなければ、自分がやるしかあるまい」
 と考えた。ところが彼は、逓信省の入札資格を持っていなかった。それではWE社の事業を日本で展開することができない。そこで岩垂は、大阪電燈に勤めていたときに知り合った「日電商会」の前田武四郎に事業への参画を打診した。日電商会は逓信省への入札資格を持っていた。
 1898年の6月、雨が降り続く某日、岩垂は前田に共同事業を申し入れた。
 前田武四郎は慶応三年(1867)、越後国(新潟県)の生まれというから、岩垂の10歳年下である。83年に上京して電信修技校に入り、逓信省電気試験所に勤め、三井物産、日本電燈、三吉電機工場を経て96年に「日電商会」を設立した。
 ドイツのヒーリング商会と提携し、ヨーロッパ製の電気製品を主に扱い、事業は順調に拡大していた。岩垂の申し出を受ければヒーリング商会との関係を打ち切らなければならない。前田は大いに悩んだが、技術者としてだけでなく、将来を見通す岩垂の能力に感服していたので、WE社との共同事業に賛同し、ここに資本金5万円で新会社を設立する合意が成立した。
 岩垂と前田は、WE社の製品を製造する工場を東京に持とうと考えた。前田が目をつけたのは、三吉電機工場だった。工部省の電信局製機所に技官として勤めていた三吉正一が設立した会社で、当時としては国内最大規模の電機工場を、都内三田の旧薩摩屋敷跡に保有していた。ところが三吉は、経営難に直面していたのである。前田から話を聞いた三吉は、三吉電機の事業を継承することを条件に、前田からの申し入れを受けると返答した。
 1899年(明治三十二)9月1日、新聞や雑誌に次のような告知広告が掲載された。

  今般三吉電機工場を譲り受け大に販売部を拡張し広く内外電気製品の貴需に応ず。

 広告主は「東京都芝区3田4国町2番地 日本電気合資会社」、すなわちこんにちの日本電気の前身である。

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