SSブログ

五月(2) [巻之一契機]

 もう一つ、好きなのは次の一節である。
 三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先ず高館にのぼれば北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。康衡等が旧跡は、衣が関を隔て南部口をさし堅め夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 いうまでもなく『奥の細道』〈平泉の条〉であって、松尾芭蕉が江戸在住の弟子・河合曾良を伴って平泉を訪れたのは旧暦の元禄二年(1689)5月13日、現今の暦に直すと6月29日に当たる。
 前日、激しい雨の中を一関にたどり着いた2人は、少しも疲れを見せず巳の刻(午前10時)ごろ、磐井橋たもとの金森家を出発した。
 同行した曾良が、折々に残した『奥の細道随行日記』には
 ――天気明
 とある。
 梅雨の中休みであったらしい。

 一リ山ノ目一リ半平泉へ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ。高舘、衣川、衣ノ関、中尊寺、光堂、泉城、さくら、さくら山、秀衡やしき等ヲ見ル。霧山見ユルト云ドモ見ヘズ。タツコクが岩ヤへ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。

 戻ったのは申の刻(午後4時)だった。
 歩くよりほかに手段がなかったとはいえ、15、6キロの道を往復し、今は草むらとなった遺構に藤原四代の栄耀を偲びつつ吟行したというのは、驚くべき健脚といえる。
 芭蕉が「大門の跡」と見たのは毛越寺の南大門礎石であろうとされる。
 毛越寺は現在、JR東北本線平泉駅のロータリーから2車線道路を直進した突き当たり、歩いて10分ほどのところに位置している。
 その道は芭蕉の時代、おそらく人1人が精一杯の幅であって、両脇から伸びる夏草が草鞋の脛をくぐったに違いない。草に覆われた基壇に立てば、かつて源平のころ曲水の宴が繰り広げられた阿弥陀池が広がっていた。実際、筆者が初めて当地を訪れた40年ほど前、道路の事情こそ違え、寺の景色はそうだった。
 2人はそこから踵を返し、観自在王院の跡地を脇に見て「泉そば」の店角を左に取り、街中を抜け、踏切を渡って衣ヶ関駅に至る細々とした道を行った。しばらく進めば秀衡屋形いわゆる「柳之御所」の跡であって、金鶏山を遠望しつつ、中尊寺を目指した。
 あたりは草いきれに満ちていた。

  夏草やつわものどもが夢のあと  芭蕉   卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

 このあと2人は中尊寺別当の案内で光堂を見た。

 兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の佛を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

   五月雨の降りのこしてや光堂

 “夏草や……”の句は芭蕉が現実に見た風景、“降りのこしてや……”の句は心象ある。


【補注】


松尾芭蕉 まつお・ばしょう/1644~1694。実名は「宗房」、号は「桃青」(または「釣月軒」)。「芭蕉」名の初出は『佐夜山中集』(1664、松江重頼撰)であって、『奥の細道』は1689年のこと、江戸を発し東北から北陸を巡って大垣にいたる五か月間の吟行記である。門弟に榎本其角、向井去来、服部嵐雪、内藤丈草など高名な俳人が出た。
奥の細道.JPG

河合曾良 かわい・そら/1649~1710。本名は岩波庄右衛門正字のち河合惣五郎を名乗った。信濃国(長野県)諏訪に生まれ伊勢長島藩に仕えた。のち江戸に出て芭蕉の門に入り、江戸における芭蕉の身の回りの世話係を務めた。奥州行脚に同行を許され、のちの芭蕉研究に資する貴重な資料を多く残した。句集『雪まろげ』がある。
金森家 江戸中期の一関に栄えた大地主で、江戸・大阪の文人と交流があった。磐井橋のたもとに二軒あり、いずれに芭蕉が宿泊したかは定かでない。金森家は芭蕉が二晩宿泊したことに由来し、屋敷の内に「二夜庵」を建てたと伝えられる。一関市には現在も地主町の名が残っている。
中尊寺 正式名称は天台宗東北大本山関山中尊寺。寺伝によると創建は嘉祥三年(850)、円仁による弘台寿院とされる。長治二年(1105)、藤原清衡が前九年・後三年の役の死没者を弔うため堂塔伽藍を再建した。最盛期は堂宇四十、僧坊三百を数えたが、建武四年(1337)に発生した野火によって金色堂と経堂のみを残して全焼した。のちこの地を支配した伊達家が援助し、明治に入って本堂が再建されている。
毛越寺 もうつじ 正式名称は天台宗「医王山毛越寺金剛王院」。寺伝では慈覚大師・円仁の創基というが、奥州藤原氏第二代の藤原基衡が保安二年(1121)から保延七年(1141)の間に建立したとする見方が強い。宇治・平等院を模し、阿弥陀如来像を安置した本殿から伸びた回廊で両翼に堂宇を結び、浄土庭園の中核に大池を配する寝殿造りであったことが発掘調査によって判明した。盛時は堂宇僧坊五百を数えた東北地方きっての大寺院だった。
泉そば JR東北本線平泉駅前にある。正式な店名は「泉屋」で、創業百年以上(正確に店主も知らないらしい)の老舗。そば菓子とそば茶が出され、店主が気が向くとサービスで義経伝説や食べ方を口上してくれるので有名になった。
光堂 「金色堂」の名で知られる。阿弥陀堂として建てられ、建物全体に金箔が貼り込められていたことからこの異称がついた。阿弥陀信仰では、末法の世を救済する阿弥陀如来仏は黄金に輝く西方浄土にいて、その出来のときには眩い光が満ちるとされた。「金閣」の異称で知られる鹿苑寺が京都の西に位置するのも西方浄土の思想が背景にある。藤原三代の遺体をミイラ化して須彌壇の下に安置するという伝え通り、1950年に行われた学術調査で三体のミイラ化した遺体と漆塗りの桶に入った首級が発見された。医学的調査によって間違いなく藤原三代の遺体と最後の当主泰衡の首級であることが判明した。
光堂の句 芭蕉と曾良が平泉を訪れたとき、金色堂は覆堂の内にあって、『奥の細道』平泉条にも「四面に囲て、甍を覆て風雨を凌」と書き残している。
平泉.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

五月(1)五月(3) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。