五月(3) [巻之一契機]
俳聖と尊称されるだけに、蕉風を学ばんとする者が絶えなかった。このため『奥の細道』は諸版が伝えられ、写しが行われるうち「五月雨の」が「五月雨や」に変わり、「光堂」が「ひかり堂」に直るなど諸本が混在することになった。
そのうち最も敷衍している底本は、芭蕉が兵庫県伊丹在住の弟子で能筆者・柏木素龍に清書させたものであって、つい最近まで、〔柏木本〕こそが芭の草稿に最も近い――ほとんど草稿そのもの――とされてきた。ところが不思議なことに、芭蕉は素龍本に不満だったらしい。
一方、河井曾良が保有した原本は、彼の故郷である諏訪の河西周徳に伝えられた。これが〔曾良本〕と呼ばれているものだが、誤字や当て字、造字が頻多に記載されるため、素龍本より資料的価値は低いとされていた。
なるほど後世の学者が、芭蕉ほどの博識にあって簡易な文字を誤り、あるいは造るというようなことはあるはずもなく、誤字・造字は信州育ちの半可な知識ゆえであろうと考えたのも無理はない。
1996年の秋、大阪の中尾松泉堂主人・中尾堅一郎氏が所有する古文書のなかに、これまでにない体裁の『奥の細道』が発見された。きれいに和綴じで製本されているにもかかわらず、無残に切り取られ、その上に和紙を張って文字を改めるなど、推敲の痕跡が顕著だった。
発見された古文書には、〔曾良本〕に繁出する誤字、当て字、造字と同じものが記されていた。素龍本を原本とする旧守派の学識は、
――中尾本は曾良本をベースに芭蕉草稿本に見せかけた偽造。
ないし、
――曾良の近親者による下手な写筆。
と論じたが、異論が出た。
――しからば筆跡鑑定をしてみようではないか。
ということになり、結果、
――これこそ芭蕉直筆の草稿本である。
と断定されるにいたった。
柏木は芭蕉の創作漢字や誤字を正しい文字に改めた。
人には誤字・造字に見えても、それがおのれの表現である。
芭蕉が不満だったのは、そのことであろう。
対して曾良は、師匠の原本を一言一句たがえず、忠実に写したということも明らかになった。これによって「素良日記」の価値が格段に高まり、彼の名誉もまた回復した。
ところがその中に光堂の句は存在していない。代わりに、
五月雨や年々降るも五百たび
蛍火の昼は消えつつ柱かな
の2句が載せられていた。
なぜ光堂の句が草稿本にないのかは、大いに疑問とされる。
奥羽山地を横断する細道を越え、途中、最上川の流れに発句したのち、5月27日(新暦7月13日)、山寺にたどり着いた。すなわち宝珠山阿所川院立石寺である。
ここで彼は、
閑けさや岩にしみいる蝉の聲
と詠んだ。
梅雨が明けたのであろう。
芭蕉自筆『奥の細道』草稿本 発見したのは古文書学者の櫻井武次郎、上野洋三である。創作漢字や明らかな誤字が混入していたことから、はじめ偽書説が出たが、諸本と照合した結果、その創作漢字や誤字は芭蕉の癖であって、直筆の草稿本であることが確定した。
芭蕉の造字 『奥の細道』冒頭の文にある生涯の「涯」という文字を芭蕉は〔氵・厂・隹〕と書く癖があった。
そのうち最も敷衍している底本は、芭蕉が兵庫県伊丹在住の弟子で能筆者・柏木素龍に清書させたものであって、つい最近まで、〔柏木本〕こそが芭の草稿に最も近い――ほとんど草稿そのもの――とされてきた。ところが不思議なことに、芭蕉は素龍本に不満だったらしい。
一方、河井曾良が保有した原本は、彼の故郷である諏訪の河西周徳に伝えられた。これが〔曾良本〕と呼ばれているものだが、誤字や当て字、造字が頻多に記載されるため、素龍本より資料的価値は低いとされていた。
なるほど後世の学者が、芭蕉ほどの博識にあって簡易な文字を誤り、あるいは造るというようなことはあるはずもなく、誤字・造字は信州育ちの半可な知識ゆえであろうと考えたのも無理はない。
1996年の秋、大阪の中尾松泉堂主人・中尾堅一郎氏が所有する古文書のなかに、これまでにない体裁の『奥の細道』が発見された。きれいに和綴じで製本されているにもかかわらず、無残に切り取られ、その上に和紙を張って文字を改めるなど、推敲の痕跡が顕著だった。
発見された古文書には、〔曾良本〕に繁出する誤字、当て字、造字と同じものが記されていた。素龍本を原本とする旧守派の学識は、
――中尾本は曾良本をベースに芭蕉草稿本に見せかけた偽造。
ないし、
――曾良の近親者による下手な写筆。
と論じたが、異論が出た。
――しからば筆跡鑑定をしてみようではないか。
ということになり、結果、
――これこそ芭蕉直筆の草稿本である。
と断定されるにいたった。
柏木は芭蕉の創作漢字や誤字を正しい文字に改めた。
人には誤字・造字に見えても、それがおのれの表現である。
芭蕉が不満だったのは、そのことであろう。
対して曾良は、師匠の原本を一言一句たがえず、忠実に写したということも明らかになった。これによって「素良日記」の価値が格段に高まり、彼の名誉もまた回復した。
ところがその中に光堂の句は存在していない。代わりに、
五月雨や年々降るも五百たび
蛍火の昼は消えつつ柱かな
の2句が載せられていた。
なぜ光堂の句が草稿本にないのかは、大いに疑問とされる。
奥羽山地を横断する細道を越え、途中、最上川の流れに発句したのち、5月27日(新暦7月13日)、山寺にたどり着いた。すなわち宝珠山阿所川院立石寺である。
ここで彼は、
閑けさや岩にしみいる蝉の聲
と詠んだ。
梅雨が明けたのであろう。
【補注】
芭蕉自筆『奥の細道』草稿本 発見したのは古文書学者の櫻井武次郎、上野洋三である。創作漢字や明らかな誤字が混入していたことから、はじめ偽書説が出たが、諸本と照合した結果、その創作漢字や誤字は芭蕉の癖であって、直筆の草稿本であることが確定した。
芭蕉の造字 『奥の細道』冒頭の文にある生涯の「涯」という文字を芭蕉は〔氵・厂・隹〕と書く癖があった。
2009-10-15 08:33
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