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殖産興業(3) [巻之四曙光]

 まったく奇妙なのは、こうした外国人を「顧問」として招いた明治政府の要人たちが、つい数年前まで「攘夷」を唱えていたはずだったことである。
 それが倒幕のお題目に過ぎなかったとすれば、心からそれを信じて斃れた志士たちは、何のために死んでいったのか。明治の元勲たちはその墓前で詫びなければならなかった。「攘夷」はお題目に過ぎなかったのか、それとも彼らは変節したのか。
 変節したのである。
 1872年のことであった。
 公家の代表格で政府に参画していた岩倉具視が「半舷上陸」を提唱した。
 「我らが西洋の事情を知らずして、なぜ西洋に打ち勝つことができるか」
 と岩倉は言った。
 この弁舌に、維新政府の中枢約100人が、こぞって“西洋”を見学に行った。見学の期間は2年に及び、その間、政府は三條実美と島津久光に、陸軍は西郷隆盛に委ねられた。
 岩倉は最初、アメリカに渡り、大統領グラントに謁見した。次いでイギリスに渡ってインド皇帝にしてインカ帝国皇帝かつ7つの海と5つの大陸を支配する大英帝国に君臨した女王・ヴィクトリアに拝謁し、またフランス大統領・ティエールと謁見した。日本の首相として扱われた岩倉は、まさに絶頂にあった。
 彼らは蒸気で動く巨大な鉄の軍艦を見、汽車や汽船に乗り、電灯の下で新聞を読んだ。
 ――これでは到底かなわん。
 ということを思い知った。
 何が何でも西洋の技術や知識をこの国に根付かせなければならない、と彼らは考えた。

【補注】


半舷上陸 はんげんじょうりく/船が港に着いたとき、乗組員を左舷と右舷に分けて半分ずつ上陸させることをいう。そうすることで常に船内に最低必要な乗組員が留まることができる。のちこれが委員会や議会などに適用され、参議院のように半数ごとを改選する制度が生まれた。
グラント Ulysses Simpson Grant/1822~1885。南北戦争のとき北軍の司令官を務め、1865年に南軍を降した。1868年共和党から大統領となり2期8年を務めた。1879年来日し明治天皇と会見している。東京・浜松町の増上寺に記念として植えた松「グラント松」がある。
ヴィクトリア女王 Qween Victoria Hanover/1819~1901。在位=1837~1901。産業革命と植民地政策でイギリスが最も繁栄した19九世紀、64年にわたって大英帝国の君主として君臨した。工業化が急速に進む中で貧富の差が増し、アイルランドの飢饉や金本位制など経済問題、度重なる戦争など“近代”の縮図を体験した。私生活では夫アルバート公と最後まで良好な関係にあり、9人の王子・王女をもうけた。イギリス王室が国民の範とされる原型を作った。このため「ヴィクトリア時代」という言葉が生まれた。
ティエール Adolphe Thiers/1797~1877。歴史家・美術史家として知られ、かつ“自由主義”を標榜する政治家でもあった。しかし思想的にはブルジョアジー保護を重視し、1830年の七月革命でルイ・フィリップ王の即位に尽力した。内務大臣を経て1836年と1840年に首相を務め、政治勢力「ティエール派」の領袖となった。1870年フランス第三共和制の初代大統領に就任し、翌年のパリ・コミューンを弾圧した。

タグ:富国強兵
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