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殖産興業(6) [巻之四曙光]

 輸送では、鉄道の整備が急ピッチで進められた。

 ●1889年(明治二十二)7月、東海道本線。
 ●1891年(明治二十四)9月、東北本線。

 列島を南北に貫く鉄道の背骨が完成した。
 この時代の鉄道の建設には面白い話が残っている。
 ――火事が起きる。
 という声が沿線の人々から出た。沿線といっても機関車が走る間際に人家があったわけではない。要するに訳の分からないものだから、毛嫌いされたに過ぎない。
 東京と大阪を鉄道でつなごうという話が持ち上がったのは1877年だった。このとき上野と高崎の間に日本鉄道が開通していたし、関西では京都と大垣を結ぶ鉄道の計画が進んでいた。そこで政府は最初、中仙道沿いの計画を作った。なぜ中仙道にしたかというと、東京―大阪を結ぶ海運業者が強く反対したからだった。それに海沿いは道路が通っているではないか。
 次に軍から苦情が出た。
 ――海に近いと、攻められたとき困る。
 ところが中仙道ルートは問題が出た。
 山が多く工事費が嵩む。
 箱根山系の下を貫く丹那トンネルが作られたのは、実はぐっと遅い1934(昭和九)年である。開業から30年以上、東海道線は国府津から北上して御殿場を回って沼津に出た。すなわち現在の御殿場線である。このために小田原、三島は箱根路越えの宿場町としての価値を失うことがなかった。
 一方、海運は大型船舶の建造と航行速度の高速化が図られた。
 なかでも画期をなしたのは、海軍における蒸気タービンの導入だった。日露戦争で海軍力の重要性を痛感した政府は、1905(明治三十八)年、呉海軍工廠で戦艦「生駒」「筑波」(ともに1万3000トン)、翌1906年には横須賀海軍工廠で「薩摩」「安芸」(同1万9800トン)の建造に着手した。このとき軍艦の設計を統括していた宮原二郎(1858~1918、のち海軍中将、貴族院議員)は、戦艦「安芸」にアメリカ製のカーチス式タービンを改良して据付けることを思い立った。当時の常識から大きく外れていたが、結果として「安芸」は世界に冠たる高速戦艦の名をほしいままにした。以後、列強諸国は1万トン超級の大型船舶に蒸気タービンを採用することになる。

【補注】


戦艦「安芸」 全長140.2m、排水量1万9800tで、時速20ノットで航行した。主砲は30㎝砲4門、砲魚雷発射管5門を備えた。当時としては世界最高速の戦艦だったが、ワシントン軍縮会議で除籍となり、1922年9月6日、野島沖で戦艦「長門」「陸奥」の試験射撃により沈没した。


タグ:富国強兵
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