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発明家たち(1) [巻之四曙光]

 岩倉具視を筆頭に、維新政府の首脳約100人が、2年にわたって”西洋”を学んだ。蒸気で動く巨大な鉄の軍艦を見、汽車や汽船に乗り、電気の下で新聞を読んだ。そのことによって、彼らは変節した。
 吉田松陰が決死の覚悟で「西洋を見たい!」と熱望し、坂本龍馬が「まず開国。しかるのち兵を養い富を蓄えよ」と訴えたことの意味を、彼らはようやく理解した。
 彼らは“西洋”なるものを目の当たりにして驚愕し、いっぺんに西洋かぶれになるのだが、かたくなに“攘夷”の思想にとらわれなかっただけマシだった。この場合の変節は、まさに君子豹変だった。
 当時、日本にやってきた西洋人顧問の多くは、日本人に対して
 「素直で向学心に富み、すぐれた理解力を持っている」
 と評価した。
 生麦事件(1862年)のとき彼らの世界では、
 「日本人は何かというと腹を切り、首を打ち落とす野蛮人」
 というイメージを持ち、「ローニン」と聞けばほとんど人ばなれした恐怖そのものであるかに考えていた。そのことを思えば、西洋人たちもまた変節したといえるであろう。
 とはいえ、外国人を顧問に招いただけで「西洋」が導入できたわけではなかった。そこには彼らの知識や技術を理解し、習得する能力と、短期間にすべてを吸収してやろうという貪欲な意欲が必要だった。その下地は、まれに突出した人物が存在したことによっていたにせよ、国内に醸成されていたのである。
 江戸の中期に関孝和という人物がいた。
 平賀源内(1727~1779)は本草学の大家としてだけでなく、エレキテル(摩擦起電器)の発明家として知られている。日本初の物産展を開いたり、寒暖計を発明したのも源内だった。田沼意次に仕え家勢を高めたが、意次の失脚後は不遇をかこった。安永七(1778)年、町民2名を殺傷して捕縛され、翌年、獄中で没した。
 高島秋帆(1798~1866)は高島流砲術を開いたばかりでなく、鉄の鋳造に努め、その弟子江川英龍(1801~1855、太郎左衛門)が伊豆の韮山に反射炉を建造した。江川英龍は種痘や銃創の手当てにも優れた術を開発し、その門下から佐久間象山、川路聖謨、橋本佐内、桂小五郎、黒田清隆、大山巌といった傑物が出た。
 土佐藩には河田小龍がいた。絵師を業とするかたわら蘭学に秀で、溶鉱炉や万国公法の知識を備えていた。嘉永五(1852)年、11年間のアメリカ生活を終えて日本に帰ったばかりのジョン万次郎から、様々な見聞を聞き取って『漂巽紀略』を著した。この門下から坂本龍馬、近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助、岩崎弥太郎などが出た。
 田中久重(1799~1881)は、「からくり儀右衛門」の異名で知られる。福岡県久留米に生まれ、手先の器用さと持ち前の知恵で、複雑な文様を織り出す仕掛けを考案した。のちにそれが「久留米絣」の名で全国に出荷されることになる。
 彼は「雲竜水」と呼ぶ消火ポンプを発明し、さらに万年時計や羅針盤、蒸気機関、精米機、揚水機などを考案し、のちに弟子の川口市太郎と協力して、独自の研究でパンチカード式計算機にたどりついた。織機からスタートし計算機の考案に至るのは、フランスのジャカール、アメリカのハーマン・ホレリス、ジェームス・パワーズに等しい。

タグ:富国強兵
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