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興廃在此一戦(3) [巻之四曙光]

〈バルチック艦隊〉

 日露戦争(1904年)もまた、海戦が勝敗を決めた。
 開戦の前から、こればかりは誰が見ても日本の負けだった。何せ相手は実業団のチームだから、遠征で疲労が癒えていないとはいえ、子どもの草野球では敵うはずがなかった。双方の海戦兵力を見ると、そのことがよく分かる。
 ロシアのバルチック艦隊(第2太平洋艦隊)は計38隻である。うち最大は1万3500トンの戦艦3隻、さらに1万トンの戦艦が5隻。全体の砲力は12インチ砲26門、10インチ砲7門、9インチ砲および8インチ砲25門、6インチ砲159門。
 対する日本艦隊は1万5000トン級戦艦3隻が中核だが、艦船数は28、砲力は12インチ砲12門、10インチ砲1門、8インチ砲34門、6インチ砲204門。砲数はロシア217、日本251で日本のほうが多かったものの、破壊力においてロシア艦隊が勝り、かつ戦闘経験では圧倒的な優位にある。
 ――ロシア艦隊の勝利は動かない。
 とするのが国際的な見かただった。
 このために日本帝国陸軍は、ロシア艦隊が到着する前に何が何でも旅順港を制圧しようとし、乃木希典をして無慮な攻撃を繰り返した。日清戦争のとき、乃木が率いた軍団は一日にして旅順を攻略したが、それから10年の間にロシア軍は大量のコンクリートを打ち、壕を掘り、そこに大砲と機関銃を持ち込んで“東洋一”の要塞を造り上げていた。しかも山の木を伐り倒し、攻撃してくる兵に身を隠す場所を与えない工夫を施した。
 帝国陸軍がそのことを知らなかったわけではなかった。しかしどれほどの装備であるかまでは計り知れなかった。このために悲劇的な戦闘が繰り広げられた。突撃する日本の兵士は屍を越えてさらに突撃して斃れていった。元込めの旧式銃と機関銃では勝負にならなかった。あまつさえロシア軍は要塞の周りに二重三重の鉄条網を張り巡らし、そこに高圧電流を流してもいた。
 攻めあぐんでいたとき、
 ――港が見える。
 という報せがもたらされた。
 軍略地図上に「二〇三」と符号が打たれた小高い山の頂から、はるか遠方に旅順港が望まれた。出入りするロシア旅順艦隊の姿も目視できる。
 ――ここから港を砲撃してはどうか。
 要塞の頭越しに、ロシアの艦船に砲弾を落とすのである。結果として、これが陸戦の趨勢を決めた。旅順港のロシア艦隊はほぼ全滅し、黒海から遠来のバルチック主力は帝国海軍を撃滅しなければ疲れを癒す寄港地がなくなった。これを得るために帝国陸軍が失った兵士は3万を超えた。
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