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興廃在此一戦(2) [巻之四曙光]

 西欧列強の圧力が強まるにつれて、朝鮮半島でも日本の幕末と同じように攘夷論が沸き起こった。当面の攻撃が開港協定と不平等条約を締結した李王朝に向けられたのも、攘夷論が倒幕論と結びついた日本における経過と等しい。ただ日本では幕府対朝廷の構図があって、天皇という超法規的存在がある意味で緩衝役を果たした。李王朝にはそれがなかった。 ばかりでなく、李王朝は軍兵を持っていなかった。宮殿に控えていたのは門を守る衛兵と儀式を彩どる儀仗兵ばかりで、その数は2000に満ちていなかった。そういうわけで国内に反乱が起こったとき、王朝の官僚は慌てふためき、これまでの習慣に従って中国に泣きついた。
 清帝国が朝鮮国を属国とみなしていたのは中華思想において当然のことだったし、事実、朝鮮の李王朝も中国中華思想の中で安穏を得ていた。これに対して日本帝国が
 ――朝鮮国の自主・中立性を認め、独立国家として待遇せよ。
と清帝国に迫ったのは、すでにして朝鮮国への内政干渉にほかならなかった。東学党の乱に際して李王朝が清帝国に援軍を求め、それを阻止せんとして日本帝国が陸戦兵一個旅団を仁川に上陸させたのが日清戦争の始まりとなったのだが、当の東学軍は
 ――斥倭洋倡。
 の旗を掲げていたのだ。彼らの目に日本は「洋」と同じように祖国を侵略しようとしている敵に見えていた。
 海戦は1894年(明治二十七)の9月15日、午後零時50分から始まった。戦史上、日本では「黄海海戦」、中国では「仁川沖海戦」と呼ぶ。これで勝敗の趨勢が決まった。
 清朝の海軍は当時、アジア最大の戦艦「定遠」「鎮遠」(7200トン)を中核に、計12隻で日本海軍と対峙した。日本海軍の主力は戦艦「吉野」(4250トン)、「松島」「橋立」(4270八トン)など隻数では同じだが、「定遠」「鎮遠」に匹敵する砲艦がなかった。清朝海軍が誇る二隻の30センチ砲が火を吹けば、日本海軍の「松島」「橋立」ですらたちまち撃沈することを免れ得なかった。
 それが勝った。
 子どもの草野球チームが、商店街の大人のチームに勝ったようなものである。
 これが自信を植え付けた。

【補注】


東学 1860年に崔済愚が創始した新興宗教で、儒教、仏教、道教を基礎に万民平等の太平天国を具現するとした。キリスト教(西学)に対して「東学」と称した。教義は迷信的だったが、民衆に広く支持を得て反体制運動に発展した。危機感を覚えた李王朝は1863年に崔済愚を「惑世誣民」の罪で処刑し沈静を図ったが、これが逆効果となって二代教主崔時亨のとき、ついに反乱(1894年、東学党の乱)となった。

斥倭洋倡義 倭(日本)と洋(欧米列強)を斥け義を倡(とな)えよ。ここでいう「義」は朝鮮国としての独自性ないし自尊意識を意味する。

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