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大日本帝国(1) [巻之四曙光]

 ここまでのおさらい。
 “西洋”とのかかわりを軸に「明治」という時代を区切ると、次のようになる。
  ●半舷上陸(1872年)から鹿鳴館開館(1883年)まで=学習期
  ●鹿鳴館時代(1883~1893年)=模倣期
  ●日清・日露戦争(1894~1904年)=和洋折衷期 日清・日露戦争をきっかけに、日本は西洋の模倣から、和洋折衷の段階に入った。1901年に矢頭亮一が「ヤズ・パテント・アリスモメートル」を、1904年に川口市太郎が「川口式集計分類装置」を製作したのは、まさにその時期に当たっている。しからば日露戦争の次に置かれる節目とは何であるかといえば、やはり第一次大戦(1914~1917)であろう。
 では日露戦争から第一次大戦までの10年間はどのように定義されるだろうか。おそらくそれは
 ――”西洋”との擬似同化期。
 とでもいうべき時期に当たっている。
 東北アジアの片隅に位置する島国が自尊心を込めて、天皇=皇帝を奉載しているがゆえに「帝国」を名乗っているうちはよかったが、戦争に勝つたびに版図を広げ、ついに本当の帝国をかたち作り始めた。その帝国は“西洋”を範として学習するところから始まったために、“西洋”の模倣にならざるを得なかった。国の概観はイギリス風の立憲君主国家、軍制と経済はプロシア風の富国強兵。
 これも「まことに不思議な話」の一つなのだが、この時期、ヨーロッパで著わされた多くの洋書――経済論であれ小説であれ――がアメリカ合衆国を経由して舶載されていた。しかも徳川幕府250年の鎖国に風穴を開けたのは、星条旗を翻した黒船であった。にもかかわらず、なぜ合衆国への憧憬が一潮流を形成しなかったのか。立憲君主国でありつつ大統領制に似た政治機構を模索することはついになかった。
 まず繰り言に近いが、筆者はそこで、1867年11月15日に、風のごとく世を去った人物のことを思う。生きてあれば1904年現在で70歳になっていたはずの彼は、維新回天が実現した暁のことを尋ねられて、
 ――そうさな、海に乗り出して商売でもするか。
 と語り、政治への思惑を否定したが、そのような自由を時勢が許すとは考えていなかったであろう。
 船中八策および新政府綱領八策のどこまでが彼の独創になるかという議論は措くとして、このとき彼が想定したのは土佐藩主・山内容堂を首班とする上下議会制であって、そう遠くない将来にアメリカ合衆国大統領制に近い体制を指向したものだった。ところがその意味を、明治の元勲たちは理解できなかった。
 なるほど天皇を西洋の皇帝に位置づければ、立憲君主制議会で国家を運営するのが順当に思われるが、雄藩が並立する産業革命の後進国であれば道州連邦制への移行が模索されて然るべきではなかったか。もしそうであれば“西洋”に擬似的に同化した高圧的な朝鮮支配は回避できていたかもしれない。
 だが歴史に「もし」は存在しない。

【補注】


船中八策・新政府綱領八策 坂本龍馬が後藤象二郎を通じて土佐藩主・山内容堂に提出した。薩長連合を成立せしめ、万国公法に基づいてイギリスと交渉して「いろは丸事件」を解決した坂本龍馬は、いよいよ徳川幕府に幕引きすることを思案した。慶応三年(1868)6月9日、後藤象二郎とともに土佐藩船「夕顔」で長崎から兵庫へ向かった彼は、船内の一室にこもって建策の原案を作り、同乗の後藤に示した。龍馬の手は金釘文字の悪筆だったため、側にいた海援隊の長岡謙吉が書き写した。
 一行は6月12日兵庫に上陸し、14日後藤象二郎が京都に入って藩論としてまとめ翌15日に成案を得た。土佐藩・山内容堂が徳川慶喜に建白書として提出したのは10月3日だった。後に明治新政府の大方針を示す「五箇条の御誓文」の原型となり、新政府樹立後の国政の指標となった。のちの研究で横井小楠の「国是七条」の思想を色濃く反映していると指摘される。

タグ:考証
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