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大日本帝国(2) [巻之四曙光]

 〈大韓帝国〉

 日露戦争が勃発した1904年の8月22日こそ、大日本帝国が擬似的西洋に転換したときだった。ロシア軍が要塞を築いていた旅順をめぐる攻防に際して、大日本帝国政府(桂太郎内閣)は大韓帝国政府の局外中立声明を無視して朝鮮半島内に軍を進めた。
 だけでなく駐留して圧力をかけ、併せて日韓議定書の締結を強要したのである。銃刀をちらつかせながら他人の家に土足で上がりこみ、その部屋を無償で貸与する契約を結ばせたに等しい。
 これには前史がある。
 1875年9月20日、朝鮮領海を侵犯した日本の軍艦「雲揚」が漢江河口の江華島砲台から射撃を受けた。大日本帝国はそれを口実に、「日朝修好条約」の締結を迫った。すなわち日本の艦船および朝鮮半島における日本の資産、日本人の生命財産は朝鮮国の法規適用外に置くとともに、日朝間の取引きには関税を課さないというものだった。
 すでにして擬似的な西洋同化が始まっていた。
 日清戦争に勝利した大日本帝国は朝鮮半島から中国清王朝勢力を一掃して親日政権を擁立し、これに対して朝鮮独立派がロシアの力を背景に排日を図ろうとしたのが日露戦争の遠因である。つまり日露戦争に大日本帝国が勝利したとき、朝鮮の植民地化は規定の事実となった。
 1905年の8月、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマスの米海軍工廠で日露講和条約が結ばれたとき、大日本帝国は南樺太の領有と満州東支鉄道、大韓帝国保護権を獲得した。満州東支鉄道はやがて「南満州鉄道」いわゆる「満鉄」となり、日中戦争、第二次大戦における政治的・軍事的な戦略を担う。
 余談がある。
 ポーツマス条約が締結されたとき、日本の国内で講和反対の声が上がった。東京の日比谷で講和反対国民大会が開かれ、集まった民衆が暴徒化して新聞社や交番を襲った。史上「日比谷焼打ち事件」と名付けられる。9月6日から11月29日まで2か月半にわたって東京市内に戒厳令が敷かれたというから、なまじの反対運動ではなかった。

【補注】


大韓帝国 朝鮮李王朝は1895年、中国清王朝を宗主とする旧来型外交から脱し「独立国」を宣言した。その2年後に新しい国号として「大韓帝国」を名乗った。
日露講和条約 日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテの間で調印が成され締結された。会議が開かれた地名を取って「ポーツマス条約」とも呼ばれる。仲介したのはアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトだった。
南満州鉄道 日露戦争後、ポーツマス条約によって我が国が南満州鉄道株式会社を設立(明治四十年)して経営した鉄道。大連・長春間の本線と幾つかの支線があった。同社は半官半民の組織で、鉄道経営のほか、炭鉱・港湾等の経営、或いは鉄道府属地の行政をも担当した。昭和二十年中国に接収。路線は東支鉄道の部分と併せて、新たに中国長春鉄道の名で総称は「満鉄」。(新村出・編『広辞苑・第2版』岩波書店)
日比谷焼打ち事件 東京市内の交番の七割が焼打ちや破壊にあい、死者17人、負傷約2000人を出した。同様の事件が横浜や神戸でも起こった。

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