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火事場泥棒(4) [巻之四曙光]

〈大戦景気〉

 産業界はこの戦争をどうとらえたか。
 ヨーロッパ全土に戦火が広がったというニュースが流れたとき、まず株価が暴落した。次いで紡績業界に不況風が起こった。
 1914年9月2日、全国蚕糸同業者協議会が操業短縮を決定し、14日には生糸相場が暴落した。大阪・北浜銀行が支払いを停止したことから大阪証券取引所と大阪米穀市場が休業し、次いで東海地方の銀行で取り付け騒ぎが発生した。
 金融不安は全国に飛び火し、周陽銀行(山口県)、村上銀行(広島県)、五泉銀行(新潟県)が休業、八十五銀行(埼玉県)、昌平銀行(東京都)が支払停止、東海商業銀行(愛知県)が破綻した。
 政府は日銀を通じて総額250万円の緊急融資を行うとともに、蚕糸業救済のために帝国蚕糸会社を設立して買い入れを保証しなければならなかった。また米価の低落を防止するために「米価調節令」を交付したが、大きな効果は得られなかった。
 当初は戦争の経済効果に否定的だった産業界は、政府の金融緩和策を機にやや投資が回復し、加えてドイツの潜水艦による貨物船の運賃高騰や、アジア地域におけるイギリス製紡績製品の流通停滞などを背景に、じりじりと上昇に転じた。1915年12月にいたってヨーロッパ戦線の膠着化がはっきりしたとき、株価が暴騰した。
 「大戦景気」が始まった。
 このかつてない好景気に、多くの「成金」が誕生し、その中の何人かがのちの国内産業の基盤を形成していくことになる。そのことは後述する。
 大戦景気は1918年いっぱいまで、丸3年継続した。
 この間に造船業、海運業が隆盛し、鉄工業が盛んになった。紡績業は空前の好況を迎え、製陶業、鉱工業、林業、商業が繁栄した。社会的な現象としては「サラリーマン」が誕生した。田園調布や軽井沢別荘地の形成、都市における消費経済の進展などもこの時期のものだった。
 大本寅治郎が鉄工所の経営を近代化しようと思いつき、事務能率の向上のために計算機が必要と考え、あるいは舶来の事務機器が飛ぶように売れたのは、こうした都市型経済の発展によっていた。1917年の12月にロシアがドイツ帝国と単独講和を結んだとき、実業家や投資家の多くは、それはロシアの内部事情であるに過ぎないと考えた。
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