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火事場泥棒(3) [巻之四曙光]

 〈対華21か条要求〉

 そもそも第一次大戦に参戦する正当な理由を日本は持っていなかったし、仮に日英同盟を根拠とする出兵であったにせよ、山東半島からドイツ帝国の勢力を一掃するに当っては、日英中の三国間で
 「中国政府に還付する目的で」
 という条件が合意されていたのである。
 ところが日本軍はそのまま山東半島に居座り、同地最大の資産である山東鉄道を占有した。 
 ――約束と違うではないか。
 袁世凱は、
 「山東半島からの速やかな撤兵を望む」
 という声明を出した。
 これに対して駐華公使日置益が中国政府に手渡したのは21か条からなる要求だった。
 21か条要求の骨子は、山東省と南満州における日本の経済的権益の確保にあって、旅順・大連の租借期限を99年に延長するなど、一方的な内容だった。
 西欧列強が戦争に忙殺されている間に満州における利権を確保・拡大しようと画策しようとする意図は明らかだった。袁世凱はアメリカ政府が仲介してくれることに期待したが、アメリカ政府の関心はヨーロッパ戦線の推移にあった。このため袁世凱は日本政府の強硬な姿勢に屈さざるを得なかった。
 5月25日、袁世凱は不承不承で日本政府との間で調印を取り交わしたが、これが中国における反日感情の遠因となった。それだけでなく、日本は国際的に「火事場泥棒」の非難を受け、西欧列強が日本に対して猜疑心を抱くきっかけとなった。アメリカでは排日運動が起こっている。
 だが、一般国民は「勝った、勝った」で沸きあがっていた。

 日清、日露と、日本軍は向かうところ敵なしの勢いで、戦争に勝つたびに領土が広がっていった。この2つの戦争で日本は台湾を得、朝鮮を植民地とし、南満州に租借地を持った。具体的にいえば、1875年(明治八)にロシア政府と千島・樺太交換条約を結んだとき、日本の領地面積は約38万平方キロメートルだった。それから30年後の1905年(明治三十八)には、2.3倍の88万平方キロメートルになっていた。維新からわずか30年で“大日本帝国”が形成されたのだった。
 ここでまた新しい戦争に勝ったことで、日本はドイツ帝国が領有していた南洋諸島をも統治することになり、また中国政府に突きつけた21か条要求で、山東半島の租借も可能になった。戦後処理をめぐるベルサイユ講和会議に日本は戦勝国として出席したのみならず、イギリス、フランス、イタリア、アメリカと並ぶ「五大強国」の一国に列したのである。ただしこのことが欧米列強諸国から嫉みを買い、中国、朝鮮の人民に恩讐を抱かせた。だけでなく、その版図を維持するのに、大日本帝国の実力は追いついていなかった。

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