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成金(4) [巻之四曙光]

 〈鈴木商店〉

 神戸に本社を構えた鈴木商店は、台湾の砂糖や樟脳を扱っていたが、大戦で物資が値上がりすることを見越して米を買い占めた。これがために米騒動で焼打ちにあった。
 総資産は5億6000万円を超え、系列会社は60に及んだという。のち昭和金融恐慌のとき、渡辺銀行の破綻に連鎖して倒産の憂き目にあった。
 その大番頭だった 金子直吉(1866~1944)は、その最盛時に次のように述べている。

 「今当店のなしおる計画は、すべて満点の成績にて進みつつあり。お互いに商人としてこの大乱の真中に生まれ、しかも世界的商業に関係せる仕事に従事し得るは無上の光栄とせざるを得ず。すなわちこの戦乱の変 遷を利用し、大もうけをなし、三井・三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか。これ鈴木商店全員の理想とするところなり。」

 彼は個人で鉄を買占め、3億円の資産を築いたと伝えられる。ただ彼の場合は出来星の成金ではなかった。すでに1899年以前に台湾総督後藤新平と結んで台湾樟脳専売法を成立させて利権を確保し、大日本塩業、日本油脂、帝国麦酒などを創立し、日本製粉、大正生命保険、日本金属、六十五銀行などの設立に関与した。
 茨城県で銅山を経営していた 久原房之助(1896~1965)は、銅の急騰で大いに儲け、その資産は1億円を超えた。敷地3万5000坪の別邸を神戸市住吉に建設し、落成式には大阪、神戸の芸者を総挙げにし、屋敷の前を通るものすべてにご馳走を振舞った。のち、事業のすべてを義兄 鮎原義介(1880~1967)(日産コンツェルン総帥)に譲り、政友会に参加、田中義一内閣で逓信相に就いた。
 彼は、あぶく銭を湯水のように使ったが、一方では手堅く事業を営み、 日立鉱山(現日本エナジー)を設立した。のちに東京電燈会社から小平浪平を電気技師として迎えて鉱山用の電動ポンプを製品化した。これがきっかけとなって、発電機や発動機の総合メーカー「日立製作所」を興すことになる。
 白石元治郎(1867~1945)は浅野商店、東洋汽船を経て、移籍した鉄工所の経営者となったが、空前の鉄需要で儲けた金のすべてを会社の資本金に注ぎ込んだ。第一次大戦前に200万円だった資本金は、大戦が終結した時には8倍の1600万円に増大していた。NKK日本鋼管の基盤はこうして固まった。のち白石には“鋼管王”の異名が献じられている。
 のちにアメリカのコンピューティング・タビュレーティング・レコーディング(CTR)社からホレリス式統計会計機械を輸入することになる森村商事の森村開作(六代目市左衛門)も、この景気に乗ってしこたま儲けた一人である。森村については後に詳述する。

【補注】


鈴木商店 武蔵国(埼玉県)川越の下級武士だった鈴木岩次郎(1841~1894)が1877年に砂糖・樟脳商として神戸に創業した。岩次郎の死後、妻ヨネ、番頭の金子直吉が製鋼部門にも事業を拡大した。鈴木商店は倒産したが、その傘下にあったのは播磨造船所(のち石川島播磨重工業)、鳥羽造船所(のち神戸製鋼所)、帝国人造絹糸(帝人)、豊年製油、旭石油、帝国樟脳、信越電力(のち北陸電力)、南朝鮮鉄道、東洋燐寸、帝国汽船、帝国麦酒(サッポロビール)などだった。また金子直吉と並んで番頭を務めた鈴木岩次郎は、鈴木商店倒産後、日商(日商岩井、現双日)を設立した。
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