SSブログ

成金(3) [巻之四曙光]

〈梅ノ木分限〉

 幸運の神は、風に乗って駆け抜けていく。その前髪を捉えることができた成りあがりを、江戸のころは「梅ノ木分限」「にわか分限」と呼んだ。
 「梅ノ木分限」という言葉には、
 ――梅の木は早く伸びるが大木にならない。
 という皮肉な洒落が含まれている。
 対置語は「くすのき分限」。
 嵐の中に船を漕ぎ出したみかんで成り上がった紀伊国屋文左衛 門は、それだけならただの“梅ノ木”だったが、のち紀州の材木で上野寛永寺根本中堂の建立を請け負う大商いをやってのけた。
 彼は徳川将軍綱吉のお側用人柳沢吉保に接近して財を成し、吉原で黄金を撒きに撒いた。その豪遊ぶりばかりが喧伝されるが、文左衛門という人は利に聡く、清濁併せ呑む剛腹でもあって、
 ――このことが江戸市中の暮らしにつながる。
 という哲学めいた考えを持っていた。
 彼の遊びは、いわば公共事業でもあった。ただ、吉保に接近しすぎ、貨幣鋳改に関与したことが命取りになった。吉保が失脚し、新井白石が改革に乗り出すとともに没落し、最後は深川八幡近くの寓居で暮した。往時を物語るのは金蒔絵の椀一つであったと伝えられる。
 これに対して「成金」という言葉は、大正当時の新聞が作り出したらしい。
 折から将棋ブームだった。
 西の坂田三吉、東の関根金次郎が「王将」「名人」の座をめぐって激突し、新聞各紙がこぞってその話題を取り上げていた。前に一つずつしか進めない「歩」が敵陣に入って「と金」に成る。庶民には分かりやすい喩えだった。大から小まで「成金」が誕生した。
 例えば 内田信也(1880~1971)は1915年に三井物産を退社し、兄や知合いから借りた資本金2万円で内田汽船を設立した。200円の家賃が払えなかったにもかかわらず、八馬汽船という会社が保有していた排水量4500トンの船を月4200円で借り、これを材木の輸送に月8000円で貸し出した。
 内田は儲けた金で手当り次第に船をチャーターし、一方、自らも船を保有して海運を営んだ。その結果、2年後には16隻の船舶を持ち、横浜に造船所を建設するまでになっていた。
 あるとき首相大隈重信の宴会に招かれた。
 「これくらいならオレにもできる」
 と考えた彼は、神戸市の須磨に迎賓用の大邸宅を建設した。洋館のほかに500畳の大広間を備えた迎賓館は「須磨御殿」と称された。
 1924年(大正13)、政友会から衆院選に立候補して当選、海軍事務次官、逓信省政務次官を経て岡田啓介内閣で鉄道相、東条英機内閣で農商相を務めた。第二次大戦後、公職追放を受けたが1952年に復帰し衆院議員となり、第五次吉田茂内閣で農林相。なかなかにしぶとい人生だった。

【補注】


紀伊国屋文左衛門 きのくにや・ぶんざえもん/没年について公式な記録は残っていない。豪商奈良屋茂左衛門と競い、権力中枢の幕府官僚を饗応し利権を拡大した。1708年に十文銭の鋳造を請け負ったが一年余りで通用禁止となり、それがきっかけとなって家運が傾いた。
 若いころは冒険心に富み、決断力と功名心で成り上がったのに対して、晩年の行動が一致しないことから、放蕩と家運衰退の原因を作ったのは二代目文左衛門であるという説もある。山東京伝の『近世奇跡考』(1804)には、享保十九年(1734)四月没とある。享年66。「帰性融相信士」と戒名し、墓は深川浄等院にある。
坂田三吉 さかた・さんきち/1870~1946。大阪の貧家に生まれたことは確かだが、幼年期のことは伝わっていない。関西将棋界で頭角を現し、1925年「名人」を自称して関東将棋界の関根金次郎と対決した。独自に考案した「坂田流向い飛車」はのち関西棋流の本流となった。死後、日本将棋連盟から「名人」「王将」の位を贈られている。北条秀司の戯曲『王将』、村田英雄の歌謡曲『王将』および、北島三郎の『歩』などのモデルとなった。
関根金次郎 せきね・きんじろう/1868~1946。千葉県に生まれ、第11世名人・伊藤宗印の門に入り、関東将棋界を代表する存在となった。1921年第13世名人となり、坂田三吉の挑戦を受けた。坂田との戦いには勝ったものの、将棋界の近代化の必要性を痛感し、1935年自ら名人位の世襲制を廃止し選手権制への移行を決断した。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

成金(2)成金(4) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。