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森村商事(5) [卷之五靉靆]

 〈七代目市左衛門〉

 “中興の祖”というべき森村市太郎が没したあと、社長に就任したのは次男の開作である。
 この人物も先代と同じく「市左衛門」を襲名したため、話がややこしい。実をいうと筆者は、「森村市左衛門」の名で調べを進める中で、異なる人物(親と子)とは考えもしなかった。つまり六代目市左衛門の幼名が市太郎、長じて開作を名乗ったと理解していた。
 ところが六代目が没した1919年以後も「森村市左衛門」が登場するので、わずかな頭脳が混乱をきたした。再度調べたところ、森村学園の記録から以上のことが分かった。従って以後に登場する「森村市左衛門」は、市太郎の次男開作、すなわち七代目市左衛門のことである。
 七代目市左衛門は兄明六と同じく慶應義塾を卒業し、1893年に渡米してニューヨークのモリムラ・ブラザーズ・カンパニー(旧日の出商会)に勤務した。帰国後、後継者として重きをなし、六代目市左衛門の晩年は実質的に森村組の経営に当たった。1917年(大正六)5月に衛生陶器部門を分離して「東洋陶器」を設立し、森村組を「株式会社森村商事」に改組したのは七代目である。
 実用に適した新しもの好きという点で、六代目と七代目は共通している。やや異なるのは七代目がアメリカ、カナダでビジネスを学んだという点であろう。
 彼は日本で初期の自動車ドライバーであったし、ほとんど最初のゴルファーだった。また六代目と同じように、決断が早かった。
 六代目が没した1919年に碍子部門を分離して「日本碍子」、「大倉陶園」を、1924年(大正十三)2月に「伊奈製陶」、1936年(昭和十一)9月に「日東石膏」、「日本特殊陶業」、「共立原料」(現共立マテリアル)などを設立している。アメリカ流の事業グループを形成したのである。
 ところで、前節で筆者は、
 ――第一次世界大戦が勃発すると、アメリカからボーンチャイナの注文が殺到した。
 ということを書いた。
 日本陶器は注文に応じて多品種少量の高級陶器を生産していたため、伝票が多岐にわたっていた。それを処理するために雇っていたソロバン部隊は、平常時でも100、ピーク時は250人に及んだという。
 このため同社は1922年(大正十一)、増大する一方の伝票の処理を機械化することを計画し、翌1923年10月に取締役の加藤理三郎(のち専務)をニューヨーク市に派遣した。
 『森村100年史』はこう記す。

 日本陶器㈱ではディナー・セットが加わって、その生産管理はきわめて複雑になっていた。そのうえ、大戦の反動不況で生産コストの切り下げが要望され、担当者の苦労は並みたいていではなかった。常時一〇〇名を超すそろばん係の女子が懸命の努力を続けたが、なんとしても計算が追いつかない。この問題を解決するため、加藤を合理化の進んだアメリカへ派遣したのである。

 高橋二郎をはじめとする学識者の啓蒙活動や国勢院での実用結果、さらにニューヨークに事務所を構えるモリムラ・ブラザーズ・カンパニーから入ってくるアメリカの最新事情などから、日本陶器はパンチカード型統計会計機械装置の有用性を認識していたのであろう。それにしても、名古屋市に本社を置く陶器会社が、現在の貨幣に換算して数億円にも相当する、しかも操作方法が全く分からない近代機械装置を購入しようとしたのだから、勇断というほかない。

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