水品と岩田(2) [卷之五靉靆]
〈加藤理三郎〉
加藤理三郎は1923年10月にニューヨーク市に渡ると、同市で開かれていた事務機械展を水品の案内で見学し、パンチカード式統計会計機の有用性を改めて確認した。 加藤はホレリス式、パワーズ式の機種選定や輸入に伴う諸問題をモリムラ・ブラザーズ・カンパニーに一任して帰国したが、水品は両機種を改めて比較検討した結果、
「電動式のホレリス式を推奨する」
という報告書をモリムラ・ブラザーズ・カンパニーの副支配人だった中山武夫に提出し、森村市左衛門もこれを了解した。
CTR社は日本にホレリス式統計会計機械装置を輸出することについて、事務手続き上では合意したものの、いざ契約を結ぶ段になって齟齬が生じた。
森村商事、つまり水品は統計会計機械装置一式を購入するつもりでいた。ところがCTR社はレンタル方式を主張したのだった。この問題では森村商事が折れた。これでまとまるかに見えた契約だったが、CTR社から別の問題が提示された。
「日本陶器は森村商事の関連会社とはいえ、出資者も経営役員も異なる別会社である。森村商事にレンタルしたマシンを日本陶器に又貸しするのは、契約外である」
というのだ。さらに設置場所が名古屋であるため、
「責任をもって保守サービスが提供できない」
というのだった。
1年間の交渉を経て、CTR社は1924年の10月11日、最終的な結論として、「マシンは提供できない」と回答してきたのである。
交渉は暗礁に乗り上げてしまった。
このとき水品は副支配人中山武夫に、
「森村商事がCTR社の日本代理店になれば、マシンを又貸しすることにはならない」
という代案を示したと伝えられる。
またCTR社に対しては、
「それならば、私にその技術を教えていただきたい」
と申し出た。
CTR社は当初、まだ代理店契約を結んでいない会社の社員を受け入れることに難色を示したが、再三再四の強い申し出に副社長・ブレトマイヤーが根負けしたと伝えられている。
加藤理三郎は1923年10月にニューヨーク市に渡ると、同市で開かれていた事務機械展を水品の案内で見学し、パンチカード式統計会計機の有用性を改めて確認した。 加藤はホレリス式、パワーズ式の機種選定や輸入に伴う諸問題をモリムラ・ブラザーズ・カンパニーに一任して帰国したが、水品は両機種を改めて比較検討した結果、
「電動式のホレリス式を推奨する」
という報告書をモリムラ・ブラザーズ・カンパニーの副支配人だった中山武夫に提出し、森村市左衛門もこれを了解した。
CTR社は日本にホレリス式統計会計機械装置を輸出することについて、事務手続き上では合意したものの、いざ契約を結ぶ段になって齟齬が生じた。
森村商事、つまり水品は統計会計機械装置一式を購入するつもりでいた。ところがCTR社はレンタル方式を主張したのだった。この問題では森村商事が折れた。これでまとまるかに見えた契約だったが、CTR社から別の問題が提示された。
「日本陶器は森村商事の関連会社とはいえ、出資者も経営役員も異なる別会社である。森村商事にレンタルしたマシンを日本陶器に又貸しするのは、契約外である」
というのだ。さらに設置場所が名古屋であるため、
「責任をもって保守サービスが提供できない」
というのだった。
1年間の交渉を経て、CTR社は1924年の10月11日、最終的な結論として、「マシンは提供できない」と回答してきたのである。
交渉は暗礁に乗り上げてしまった。
このとき水品は副支配人中山武夫に、
「森村商事がCTR社の日本代理店になれば、マシンを又貸しすることにはならない」
という代案を示したと伝えられる。
またCTR社に対しては、
「それならば、私にその技術を教えていただきたい」
と申し出た。
CTR社は当初、まだ代理店契約を結んでいない会社の社員を受け入れることに難色を示したが、再三再四の強い申し出に副社長・ブレトマイヤーが根負けしたと伝えられている。
2009-11-20 11:13
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