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黒澤村(1) [卷之六游魚]

〈高峰譲吉〉

 この黒澤という人物は高峰譲吉とも親交があった。
 高峰は消化酵素「タカジアスターゼ」、“興奮ホルモン”とも呼ばれる副腎髄質ホルモン「アドレナリン」などの発見で知られる。あるいはニューヨークの公園に、日本から持ち込んだ桜の木を植え、春になると〔サクラ・マツリ〕を催した。

 知り合ったのは1901年、日本に帰国する船の中である。
 出会ったとき高峰は47歳、黒澤は26歳だった。高峰は生化学者として国際的な名声を獲得しており、アメリカ合衆国ミシガン州アナーバの酒造会社パークデヴィス社の顧問として、アルコール飲料を醸造する際の酵母の技術を指導するかたわら、現地に「高峰研究所」を開設していた。
 一方の黒澤は、世の中に誇り得る実績などまったくない。志だけを矜持とする一介の青年に過ぎなかった。おそらく黒澤は高峰に、日本でタイプライターを販売することの意義――より多くの庶民がたやすく小学教育を享受できるよう、漢字を廃すべきである、という自論も含めて――を熱弁した。こうして何回か言葉を交わすうち、高峰はこの青年の生意気さが気に入ったらしい。
 そこで高峰は、「タイプライターもいいが、私が作った薬も売らないかね」と黒澤に持ちかけた。
 「日本人は胃腸が弱くて、何かというと腹をこわしている。それでは欧米に勝てない」
 植物と魚介類に慣らされた日本人の胃腸は、牛豚の蛋白質と脂肪を消化し切れなかった。タカジアスターゼが日本人の体力を欧米人並に強くするであろう。その気があれば、塩原又策を紹介しよう、というのである。高峰は2年前、塩原と共同でタカジアスターゼの販売を行う合資会社「三共商店(のち三共)」を大阪に設立していた。東京に販売店を持ちたいと塩原は希望していたのである。
 黒澤は理解が早く、思考が柔軟だった。銀座に開いたばかりの黒澤貞次郎商会の店頭には、タイプライターとタカジアスターゼが並んでいたと伝えられる。
 事務能率増進運動で、黒澤の事業は順調に拡大した。そのため、弥左衛門町の店が手狭まになった。そこで黒澤は1907年(明治四十)、東京市京橋区尾張町2丁目213番地(現中央区銀座6丁目)に土地を求め、本社を移転するとともに、2年後に鉄筋コンクリート造・3階建ての本社ビルを建設した。このビルは関東大震災の火災にあったものの焼け残り、不思議なことに第二次大戦末期の空襲でも生き残った。
 銀座6丁目に本社の用地を購入する際、地主は黒澤を信用しなかった。
 「ならば、対価は現金で支払おう」
 といっても首をたてにふらなかった。
 このことを聞いた高峰譲吉は、千葉県野田の豪商・茂木佐平治に話を持ちかけ、茂木が黒澤の保証人となった。だけでなく、茂木の縁者である北川家が黒澤に資金を提供もした。タカジアスターゼの原料が醤油のモロミであったことから、高峰は茂木と懇意な関係にあった。茂木左平治といえば、「茂木八家」と称される北総きっての豪商であって、これから10年ののち、「野田醤油」(現キッコーマン)を興す人物である。
 さらにいうと、これが縁で黒澤は茂木左平治とも親交を結び、その娘・まつの嫁ぎ先である小森家、その縁者で佐原の名家・北川家とも縁を持つようになる。第二次大戦後、連合軍総司令部(GHQ)配下のパンチカード・システム部隊および、アメリカ在日空軍立川基地の電算処理業務を通じて多くの人材を養成し、日本のITサービス産業に大きな足跡を残した北川宗助は、小森まつの実子、すなわち茂木左平治の外孫である。北川家の養子となり、長じて茂木、高峰、黒澤の関係で黒澤貞次郎商店に入った。
 それにしても、アメリカから日本に帰る船の中でたまたま一緒だったというだけで、高峰や茂木がのちのちこれほどの親交を持ったのは、黒澤という人物の魅力であったのかもしれない。
 ともあれ、明治の人間の関係は濃厚だった。

【補注】


高峰譲吉 たかみね・じょうきち/1854~1922。金沢藩医・高峰精一の長男に生まれ、工部大学校を出てイギリスのグラスゴー大学に留学した。帰国して農商務省に入り清酒や醤油の醸造技術を研究する中で酵母とジアスターゼを発見した。のちアメリカ国籍を取得し、ニューヨークで没した。
アナーバー 1824年に誕生した開拓の町で、その名は最初に入植した2組の夫婦の妻が「アン」「マリーアン」だったことと、産出したブドウの種類が「アーバー」だったことによっている。パークデヴィス社は最初、ワインを生産していたが、高峰譲吉の研究成果を生かして製薬業に転換した。
塩原又策 しおばら・またさく/1877~1955。長野県で生まれ横浜で育った。横浜に本社を置いた大谷嘉兵衛の日本製茶会社に勤め、のち大谷と共同出資した横浜絹物会社で取締役支配人をしていたとき、高峰譲吉と懇意になった。1902年、大阪に三共合資会社を設立し1913年株式会社に改組して高峰を社長に招聘した。近代製薬業の基礎を作った人物とされる。
千葉県野田 千葉県野田で醤油が作られるようになったのは、古く戦国後期の永禄年間(1558―1569)にさかのぼる。伝承によると「飯田市郎兵衛」の先祖が甲斐武田氏に豆油醤油を納め、「川中島御用溜醤油」と称したという。確実な記録では寛文元年(1661)に「高梨兵左衛門」という人が醤油作りを始め、翌年に「茂木七左衛門が味噌醸造を始めた」とある。それまで醤油は菱垣廻船や樽回船で関西から江戸に運ばれていたが、野田の醤油の生産量が高まるのにつれてそれに取って代わった。
 高梨兵左衛門と茂木佐平治の両家は明治に入って「野田醤油醸造組合」を結成し、併せて「野田商誘銀行」や「野田人車鉄道」「野田病院」などを設立して地域の振興に努めている。この間、同じ千葉県の銚子でも醤油作りが始まり競争が激化した。そこで野田を本拠とする高梨系と茂木系の醸造元は1917年(大正六)、大合同して「野田醤油株式会社」を設立した。このとき社長に就任したのが茂木七郎右衛門である。また200以上もあった商標のうち、高梨家の「甲子(きのえね)」と茂木家の「亀甲萬」が統一商標となり、それがこんにち広く知られる「キッコーマン」となっている。

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