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世代交代(3) [卷之六游魚]

 中華民国でも世代の交代をきっかけに政局が動いていた。
 1925年1月12日、孫文が北京で没した。享年59。
 広東省に生まれ、日本に留学して医者となった。ときの清王朝は有名無実に化し、中国は西欧列強はおろか、新興のアメリカや日本にも租借地を与えるありさまだった。これに義憤して「興中会」を組織し、のちに発展して中国革命同盟会が結成されている。 しばしば日本を訪れ、留学時代の旧友と親しく交わるとともに、運動に必要な資金を調達した。鈴木久五郎が10万円という大金を渡して、革命の志を気取ったのはそのときのことである。
 1911年(明治四十四)は五行干支でいう「辛亥」に当たっていた。「辛亥」は革命の年である。隋・唐の時代まで、それは「辛酉」であるとされていたが、歴史が重なると必ずしも辛酉の年だけに大きな政変が起こるということがなくなった。このため「甲子」の年には”革令”の役割が与えられ、「辛亥」には”維新”の意味が付与された。つまり暦とはつとめて政治的なものなのである。
孫文はそれを利用した。
 「天命が革まるのだ」
 と民衆に訴えた。
 この訴えは分かりやすかった。これがために皇帝から人心が離れ、清朝が倒れ、満州族は辮髪を翻して東北の故地に帰っていった。その年の12月29日、南京に「中華民国軍政府湖北都督府」が樹立されると、孫文は百万の民が歓喜するなかで臨時大統領に就任した。
 1912年3月、「中華民国」の成立をもって孫文は大統領の職を袁世凱に譲り、自らを思想的指導者に位置づけようとした。後世の毛沢東と周恩来の関係に似ている。ところが袁世凱や段祺瑞など軍部との対立が深まり、ついに袁が「皇帝」を称するに及んで広東に下野し、国民党を組織した。中国では「国父」と尊称される。
 孫文が世を去った後、中華民国の中枢を握ったのは段祺瑞だった。安徽省出身でドイツに留学して軍事を学び、帰国するや袁世凱の腹心として武威を張った。しかし南京政府は中国全土を掌握できなかった。満州には安国軍総司令張作霖を首領とする軍閥が半独立の情況にあり、かたや広東省には北伐軍総司令蒋介石を代表する国民政府が地方軍閥を傘下におさめて勢力の拡張を図っていた。
 1926年、国民政府軍は湖南・江西省に進入し、27年の初めには淅江省の孫傳芳軍を破って上海に迫った。張作霖が孫傳芳を支援するために張宗昌の軍を差し向けたため、満州軍閥と国民政府軍の間に緊張がみなぎった。
 ――これでは段祺瑞に漁夫の利を与えるのみである。
 と判断した国民政府軍がひとまず揚子江南岸に後退し、ことなきを得た。
 1927年の1月、国民政府軍は再び北伐を開始し、3月に南京に入城した。その際、1部の部隊が日本領事館を襲撃した。「内政不干渉」を方針とする若槻内閣(第1次)は、この事件に際しても艦隊による領事館員救出にとどめ、騒動はひとまず収まるかに見えた。

 この年の3月、衆議院で野党の政友会、実業同志会が震災手形の処理について激しく若槻礼次郎内閣を攻撃した。若槻礼次郎は加藤高明の死没を受けて憲政会総裁に就いていた。
 当初、1億円の予定だった震災手形は、産業界の要望を聞き入れているうち、最終的に2億7百万円に膨れ上がっていた。手形の割引について日銀が保証することになっていたので、政府は特別措置法で手形の割引率を引き上げることを計画していた。野党はこの点を攻め立てたのだった。
 一方、米騒動で焼打ちにあった神戸の鈴木商店は、長引く不況で債務超過に陥っていた。同商店が抱える債務総額4億五千万円のうち、台湾銀行の債権が3億5000万円を占め、そのうち6500万円が震災手形だった。これを追及しない野党はないであろう。
 「この焦げ付きをどうするのか」
 と野党は詰め寄った。
 蔵相・片岡直温は、やや思慮が足りなかった。3月14日に開かれた衆院予算委員会で彼は、
 「台湾銀行は、渡辺銀行と強い連携の関係にある。破綻の心配は全くない」
 と、発言した。
 渡辺銀行は神戸の鈴木商店のメインバンクであって、片岡とすれば台湾銀行―渡辺銀行―鈴木商店の関係を強調すれば、反対派を説得することができると考えた。ところが現実にはまったくの逆効果だった。
 翌日、渡辺銀行に預金者が預金の取り付けに殺到した。
 渡辺銀行は要求にこたえるだけの現金を持ち合わせていなかった。このために渡辺銀行は事実上、倒産してしまった。また鈴木商店も破綻し、台湾銀行も休業せざるを得なくなった。
 これが引き金となって若槻内閣は総辞職し、政友会の田中義一が組閣した。取り付け騒ぎが起こったのは全国で37行におよび、引き出された預金総額は8億8000万円に達したという。田中内閣の蔵相に就任した高橋是清は4月22日、緊急勅令で金銭債務の支払延期(モラトリアム)を3週間にわたって実施し、ようやく沈静化を見た。
 いわゆる「昭和金融恐慌」がこれである。
 若槻内閣に代わって政権を担った田中義一内閣は、内憂と外患を一度に背負わされた。清王朝が消滅した後の中国の動乱である。それはまるで、紀元3世紀に曹(魏)、孫(呉)、劉(蜀)の三国が覇権を争った時代を思わせる。歴史活劇を見ているようだったが、それは現実の出来事だった。

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