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史の朋輩(3) [序叙]

 実弟で西域を探検する功を立てた超がこの危機を聞きつけて弁護に立ち、権門の竇氏を動かして兄を救い出した。帝はその作が優れているので、反対に固を蘭台令史(宮中秘書管理官)に取り立て、勅命で編纂の続行を命じた。 完成したのは後漢第三代章帝の建初年間(78~83)である。初代高祖から平帝にいたる前漢十二代213年間の出来事、人物、社会・風俗、文化、地誌などを総覧した大著であるために、上梓するだけで5年を要した。
 ところが明帝の勅命で著わしたにもかかわらず――あるいはそうであったがために――、『漢書』はただちに正史として採用されなかった。
 政治の情勢が大きく変わっていた。
 和帝の永元四年(92)、外戚として権力をほしいままにした竇一族が宦官鄭衆の讒言にあって誅されると、大将軍・竇憲の業績を称える碑文を書いたという理由で班固は下獄し、獄中で死んだ。これがために大著は散逸の憂き目を見た。
 ところが曹家に嫁いでいた妹の昭の許に草稿が残っていた。二代にわたって竇一族に接近し過ぎたことを察知した固は、こういう時のことを考えていたのかもしれない。和帝はのちに班固を獄死させたことを惜しみ、班昭すなわち曹大家を宮中に招き、馬融と共同で再び取りまとめさせた。
 これが『漢書』成立の経過である。

 以上のことは本多済編訳になる『漢書・後漢書・三国志列伝選』に依っている。つまり筆者の独創になる知識ではない。筆者はただ、その書き物を手にしていたに過ぎない。すなわち剽窃ということになるであろう。

【補注】


竇憲 とう・けん/?~92 妹が後漢朝第三代章帝の皇后となったことから外戚として権勢をほしいままにした。章和二年(88)、章帝が没し10歳の和帝が即位すると妹の大后とともに政を見た。翌年、北匈奴を討って捕虜20万余を得る戦功を挙げた。その遠征に班固も従軍している。
班昭 はん・しょう/45~117。班彪の娘、班固、班超の妹。字「恵班」(一説に「姫」とも)。曹寿(字「世叔」)に嫁ぎ、数人の子女を生んだ。永元四年(92)、和帝の命で宮中に入り、兄・班固の遺稿をもとに『漢書』を完成させた。また、鄧太后の信任を受けて宮中で女性に講学を行った。後漢全期を通じ傑出した女性学者とされる。

『漢書・後漢書・三国志列伝選』 本多済編著。1963年、平凡社

漢書・後漢書・三国志列伝選.jpg


本多済 ほんだ・わたる/1920~ 元大阪市立大学文学部教授。三重県伊勢市に生まれ京都大学で中国哲学を専攻した。易学研究に関する第一人者だが、幅広く中国古典を渉猟し、なかでも中国正史に精通している。
タグ:班固 漢書
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