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史の朋輩(4) [序叙]

 巻末の〔解題〕が面白い。
 文字通り『漢書』『後漢書』『三国志』のそれぞれについて、その成立過程や位置づけ、特徴などを解説しているのだが、何が面白いかというと、中国の著名な史家が時代を超えて論争を展開していることである。

 冒頭、本多は次のように書き起こしている。

 清末の名臣、張之洞の著わした初学啓蒙の書『輶軒語』(語学)に「宜しく正史をむべし、正史のうち宜しくまず四史を読むべし」とある。正史とは『史記』より『明史』に至る、各王朝の正統の歴史、二十四史のこと。四史とはそのうち『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』をいう。

 そもそもこの書き出しからして、ただの「解説」ではないことを示唆している。以下、登場する史家は劉知機、鄭樵、顔師古、傅玄、方苞、服虔、応劭、蘇林、如淳、孟康、韋昭、晋灼、王先謙、司馬彪、劉珍、謝承、薜瑩、華嶠、謝沈、張瑩、袁崧、張璠、袁宏、章懐太子、裴松之、王応麟、王若虚、夏侯湛、朱彜尊、李徳林、欧陽脩、黄震、章望之、蘇軾、司馬光、趙翼、王鳴盛、銭大昕、全祖望、魚豢、孫盛、習鑿歯、王穏、張勃など40人を超える。
 彼らが時代を超えて論じたのは「記録」と「歴史」というものについてだった。それは出来事の経過を記すことと、史書としてまとめることの相違、と言い換えていい。さらにいえば主観と客観ないし、「実」と「評」の関係というものである。
 たとえば本多は次のように書く。

●鄭樵が不満なのは『漢書』が通史でなく、断代史だという点である。
●『史記』の自叙では各篇の製作意図を説明して「某篇を作る」というのに対し、『漢書』の叙伝では「某篇を述ぶ」という。
●司馬遷はまだしも善印善果、悪因悪果の法則性をできるだけ模索した上で、どうにもならぬ時に、天命に託するが、班固はその点、比較的あっさりと天命に帰着させた。范曄は最後は天命に帰せねばならぬ時でも、できるだけ人間の意志の力を認めようとする。
●諸葛亮について陳寿が「政治家であって戦略家でない」と評したことは、むしろ史家としての冷静な判断であり、その叙述には故国の英雄に対する尊敬と哀惜の念がありありと読み取れる。

 本多も朋輩の一人となって弁じている。それがまた面白いことでもある。

【補注】


司馬遷 しば・せん/前145?~前86(前80説もある)。前漢武帝のとき父・談が太史令(史書を司る)に任じられ、夏・殷から漢までの通史を描こうとした。しかし完成させないまま没したので遷が業を継ぎ、前90ごろ『史記』全130巻を上梓した。遷が著わした130巻のうち武帝紀は破棄され、他者の作で埋められ、他の巻も後世の筆が入っている。匈奴に捕らえられた将軍李稜を弁護し宮刑に処せられた。
諸葛亮 しょかつ・りょう/181~234。字「孔明」。蜀の劉備に仕え呉の孫権と結び魏と対抗した。蜀は険しい山に囲まれ国は貧しく兵は少なかったが、亮の手腕でよく耐えることができた。「三顧の礼」「泣いて馬稷を斬る」「死せる孔明、生ける仲達を走らす」などの言葉で知られる。
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