SSブログ

幕末(4) [卷之三薄靡]

 通称「ジョン万次郎」のことも忘れるわけにはいかない。
 先回りだが、このジョン万次郎がリンカーンのことを勝海舟に伝え、勝海舟が坂本龍馬にそのことを話した。同じ土佐の出身ということで、後日、龍馬はジョン万次郎に面会し、アメリカの事情をさまざま聞いた。
 天保十二年の一月、14歳の万次郎は同じ村の4人の男たちと土佐の足摺岬にほど近い小さな漁港から鱸漁に出た。3日目に嵐にあい、舵を失って黒潮に流されるうち、9日目に絶海の小島に漂着した。アホウドリの生息地で知られる現在の「鳥島」である。
 そのアホウドリを捕獲し、海で得た魚介で飢えをしのいでいた152日目に、水平線のかなたから一隻の蒸気船が近づいてきた。アメリカの捕鯨船「ジョン・ホウランド」号だった。アメリカの商船や捕鯨船は、鳥島、小笠原島などで薪水を補給していたらしい。万次郎たちはこの船に救助された。
 万次郎はマサチューセッツ州ボストンにほど近いフェアヘブンのホイットフィールド船長宅で養子として育てられ、19歳のとき捕鯨船「フランクリン」号に航海士として乗り込むことになった。大西洋から喜望峰を回り、インド洋から太平洋に抜ける長い航海から戻ったのは3年後、1848年の2月だった。万次郎は世界一周を果たした初めての日本人になった。
 その年は、カリフォルニア州で金が発見された話題で持ちきりだった。彼はホイットフィールド船長に、カリフォルニアで一儲けし、それを元手に日本に帰りたい、と申し出た。金鉱で働くこと70余日で銀貨600枚(600ドル)を得たという。
 その銀をもってホノルルで暮らしていた4人の仲間の旅費や日本への密入国にかかる費用をまかなった。まず台湾から琉球に渡り、薩摩、長崎を経て、故郷・中の浜に戻ったのは嘉永五年十一月、鱸漁に出てからおよそ12年後のことだった。
 前述の坂本龍馬が「「入れ札で将軍を決めるのか」と驚いたという話には、もう一つの説がある。
 土佐に戻った万次郎は、藩命により、高知城下に住んでいた河田小龍の調べを受けた。取調べの内容をまとめたのが『巽漂紀略』という書物として残っている。
 ――小龍の塾に龍馬は通っていたので、その話を聞かせたのは海舟ではなく、小龍である。
 という説もあるが、小龍の自叙伝『藤陰略話』には龍馬に関する記述がまったく出てこない。少年期の龍馬はさして強い印象を与えることがなかったらしい。また、江戸に出た龍馬が同じ土佐出身の万次郎に子犬のようにつきまとっていたことは事実のようなので、万次郎から直接聞いたことがあっておかしくはない。そのあたりはよく分からない。

【補注】


坂本龍馬 さかもと・りょうま/1835~1867。実名「直柔」、明治二十四年贈正四位。こんにちの坂本龍馬像を形作ったのは、坂崎紫瀾が1883年に著した『天下無双人傑海南第一伝奇汗血千里駒』とされる。また、その名を高めたのには、これを底本に精緻な史料を加えた司馬遼太郎の長編小説『竜馬が行く』が大きな役割を果たしている。このため 高知河田小龍塾で小龍の講義の誤謬を指摘したとか、江戸で武芸修行をして千葉道場で免許皆伝を得たといった史実と異なる虚像が形成されている部分が少なくない。
河田小龍 かわだ・しょうりょう/1824~1898。高知に在住し絵師を生業とした。長崎で蘭学も学んだことから幕末の土佐藩にあって蘭学の私塾を開いていた。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

幕末(3)幕末(5) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。