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発明家たち(2) [巻之四曙光]

 計算機はヨーロッパやアメリカが生み出した機械装置には違いないが、蒸気機関や反射炉、自動織機といった近代産業の機器・装置を自力で作り出そうという努力は、江戸幕藩体制の中でもさまざまなかたちで行われていた。

 計算機械装置も同様であって、明治年間に計算機を独自に発明し、製作した人々がいた。それは逸見治郎、矢頭亮一(良一)、川口市太郎、大本寅次郎といった発明家である。彼らは独創したか、英文のわずかな資料をもとに独力で計算機を作成し、このうち3人までもが商業的に成功している。
 4人のうち、最も若年で計算器ないし計算機械装置の作製にかかわったのは逸見治郎だった。彼は17歳のとき東京・猿楽町にあった中村測量計器製作所という会社に入り、目盛工として働いていた。目がよく、手先が器用だったため20歳になったときには“日本一の目盛工”と言われるようになっていた。
 1894年(明治二十七)のことだったが、内務省の土木課長だった近藤虎五郎と工学博士・広田理太郎が欧米視察から帰ってきた。このとき広田はフランスで買い求めたマンハイム計算尺を旅行鞄に納めていた。ネピアボーンズが発展して計算尺というかたちが出来上がっていたのである。
 近藤と広田は、
 ――これを使えば日本の土木、建設の精度が数倍も高まる。
 と考え、日本での生産を考えていた。
 翌1895年、内務省から中村測量計器製作所にマンハイム計算尺の複製という仕事が発注された。その仕事はおのずから逸見の担当ということになった。現物が目の前にあって、単純に複製するだけ――という考えは、簡単に覆った。湿気と熱で歪みが生じ、計算の結果が正しく出なかったり、中に差し込んだスライド板がうまく動かなかったりした。
 そこで逸見は素材の研究からやり直した。桜、黄楊、黒檀、紫檀、桐などさまざまな木材で試作したが、すべてがうまくなかった。あきらめかけたとき、竹でできた物差しがあった。孟宗竹である。よく乾かした孟宗竹は狂いが小さい。ただ、一枚板では節があったり熱で歪んだりした。そこで薄く削った孟宗竹を巧みに貼り合わせた。
 竹でできた計算尺は大正期の都市建築や造船業の興隆の波に乗って、たちまち普及していった。第一次大戦でドイツが計算尺の輸出を中止したために、逸見の計算尺は欧米でも売れた。のち、逸見は独立してヘンミ計算尺という会社を興し、「SUN」のブランドを付けた。現在では一部のファンに限られているが、ピーク時には世界の78%のシェアを占め、年間100万本を出荷するほどに売れた。

【補注】


逸見治郎 へんみ・じろう/1878~1953。マンハイム計算尺を模倣し1909九年に「ヘンミ計算尺」の特許を取得し、1938年合資会社逸見計算尺を東京・猿楽町に設立した。

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