SSブログ

発明家たち(3) [巻之四曙光]

 矢頭亮一は1878年(明治十一)、現在の大分県豊前市岩屋に生まれた。父親は岩屋村の村長だった。
 その家系をさかのぼると、
 ――赤穂四十七士の一人である矢頭右衛門七(教兼)にたどりつく。
 という。
 先祖の姓は〔やとう〕だが、子孫が分家し、一つは〔やがしら〕を名乗り、豊前の矢頭家はいつのころか〔やず〕に変わったものらしい。現在も豊前市に30軒ほど、この姓を名乗る家がある。
 彼は中学校を退学し、独力で飛行機の研究・開発に取り組んだ。大阪、長崎に出て数学・工学などの基礎学科を学び、1900年(明治三十三)、22歳のときに飛行機の基本概念「飛翔原理」を完成させた。機体の最前部に取り付けたタービン・エンジンでプロペラを高速に回転させ、その推力をもって翼に浮力を与えるという理論は、1903年に初飛行に成功したライト兄弟の原理とまったく同じだった。
 ときに彼は、北九州小倉に駐屯する陸軍第十二師団の軍医部長が、ドイツで勉学を積んだたいそうな知識人で、西洋の事情に明るいことを聞き及んだ。そのドイツ帰りの軍医部長とは、すなわち森林太郎(鴎外、のち陸軍軍医総監)である。
 矢頭は森を訪ね、軍隊と民間における飛行機の有用性、利便性を熱弁した。このとき矢頭は自身の独創で発明した計算機――矢頭は「自動算盤」と呼んでいた――の模型を示し、
 「これを製品化して販売し、その利益をもって飛行機を作りたい」
 と訴えた。
 森は矢頭の天才と再三訪問する熱意に打たれ、その年の十月、
 「上京し大学で研究せよ」
 と、この青年に告げた。
 「上京せば、わが母に万事を頼るべし」
 と援助を約束した。この経緯は『小倉日記』に記されている。
 その援助とは、
 
  一、東京工科大学(のち東京帝大工学部)の教授を介
    して矢頭の研究指導に当てること。
  一、特別に研究室を与えること。
  一、機械図書などの閲覧の自由を与えること。

 ――の三点だった。
 若くしてドイツに学んだ森は、矢頭の理論を正しく理解することができた。にしても、一介の田舎発明家に対して破格の扱いであった。
 森はさらにこの話を、東京の知己に吹聴した。話を聞いた元外務大臣で伯爵として元勲に列していた井上馨は、懇意にしていた渋澤栄一などと資金を調達し、また地元の篤志家などの支援を得て、矢頭は東京・雑司ケ谷に組立工場を建設することができた。

【補注】


豊前市岩屋 磨崖仏や神楽で知られる。矢頭亮一の出身地については黒土村大字皆毛(現在の豊前市大字皆毛)とする説もある。本書では森鴎外『小倉日記』に従う。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

発明家たち(2)発明家たち(4) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。