発明家たち(4) [巻之四曙光]
この時点までに、産業界では西洋の計算機が脚光を浴びていた。その8年前に高橋二郎が論文「人口調査電気機械の発明」を発表したのに続いて、1887年(明治二十)には日本生命がイギリスから「テートス計算機」を輸入して保険数理の解明や計算実務に実用化していた。井上馨や渋澤栄一は、計算機の国産化に着目した。森林太郎の説得が効を奏したことは言うを待たない。
1901年(明治三十四)に発売された自動算盤は、「パテント・ヤズ・アリスモメートル」と命名された。「パテント」と冠したのは、矢頭が計算機構の特許を取得したからである。
矢頭本人が残した記録に
計算機は我算盤を知らざる外人の発明したるものなるを以て算盤より勝れる点多きにも拘らず之より不便なる個所も亦少なからざるなり。左れば其使用者は算盤と計算機とを合わせたるが如き速算機械を得んことを切望せしが自動算盤は此の希望を充分満足せしむることを得るものにして曾て外国製計算機を使用せられし所の紳士は続々自動算盤を購入し給へり。
とある。
――西洋の計算機より、ソロバンの理屈を応用した「自動算盤」のほうが使いやすいのである。
と胸を張っている。
パテント・ヤズ・アリスモメートルには、どうやら2つのモデルがあったらしい。いまふうにいえば普及モデルと高級モデルということになる。
矢頭は自動算盤を3年間で計二百数十台販売した(223台という説がある)。購入者は陸軍省、内務省、日本鉄道、農業試験場、統計局など政府機関が中心だった。その利益は5万円に達したという。現在の東京都港区三田にある日本電気本社ビルの敷地と、その上にあった工場を、日本電気の創業者である岩垂邦彦が購入した金額が4万円だったことを考えると、矢頭の成功がいかほどのものだったかが分かる。国産の商用計算器として成功した量産第一号といっていい。
この普及モデルの現物が、いまも東京・上野の国立科学博物館に保存されている。
木でできたほぼ扁平な箱であって、いくつかのボタンと目盛りが付いている。この中に組み込んだ歯車とギアが連動して動作し、設定した目盛りに沿って一の位の歯車が動き、桁上がりをギアに伝え、10の位の歯車が目盛りをもって集計の数値を示す。
高級モデルは1977年に矢頭亮一の縁者が蔵を片付けているとき、偶然に発見された。金属でできた手回し式であって、第一段の数字をセットし、後方に備えられた演算機構があたかもタイプライターの打鍵面のように左右に動き加減乗除を計算していく。その仕掛けは「自動算盤」と名付けたようにヨーロッパの発明品に類似がなく、矢頭の独創であったことが分かる。
1905年(明治三十八)、矢頭は計算機で得た利益5万円を元手に東京・雑司ヶ谷(現在の豊島区護国寺付近)の工場を改造した。いよいよ念願の飛行機の実験・試作を始めるるのである。工場の改造が終わったのは2年後だったが、その間にも矢頭は飛行機の製作に着手し、工場が完成したころにはおおよその姿ができあがっていた。だが、尾翼を仕上げている途中、高熱を発して倒れた。
肋膜炎が悪化していたのである。
彼は病床にあっても飛行機の製作に細々した指示を与えた。だが病の進行が志を挫いた。矢頭はその完成を見ないうち、31歳で早逝した。研究はあとを継ぐものがなく、国産の計算機と飛行機の開発はここで途絶えた。
その死するを知った鴎外は嘆くこと激しかった。
「天馬行空」
の四文字には、その冥福を祈るとともに慙愧の念が滲み出ている。
矢頭の飛行機 『豊前市史』掲載の「福岡日々新聞」に記事が載っている。それによると、《模型は長二間、幅五尺、全鋼鉄製で付属品等も完備したもので、製作費は9500円だった。実物が完成すれば「機体長53フィート、幅14フィート、両翼面積306平方フィートで、重量は1万3300ポンド、翼長は20フィート、最大速力時速400マイル、最小速力時速3マイル、通常速力時速200マイル」、「工事費3万円」》などとなっている。当時の3万円は現在の貨幣価値に換算すると2億~3億円に相当する。
1901年(明治三十四)に発売された自動算盤は、「パテント・ヤズ・アリスモメートル」と命名された。「パテント」と冠したのは、矢頭が計算機構の特許を取得したからである。
矢頭本人が残した記録に
計算機は我算盤を知らざる外人の発明したるものなるを以て算盤より勝れる点多きにも拘らず之より不便なる個所も亦少なからざるなり。左れば其使用者は算盤と計算機とを合わせたるが如き速算機械を得んことを切望せしが自動算盤は此の希望を充分満足せしむることを得るものにして曾て外国製計算機を使用せられし所の紳士は続々自動算盤を購入し給へり。
とある。
――西洋の計算機より、ソロバンの理屈を応用した「自動算盤」のほうが使いやすいのである。
と胸を張っている。
パテント・ヤズ・アリスモメートルには、どうやら2つのモデルがあったらしい。いまふうにいえば普及モデルと高級モデルということになる。
矢頭は自動算盤を3年間で計二百数十台販売した(223台という説がある)。購入者は陸軍省、内務省、日本鉄道、農業試験場、統計局など政府機関が中心だった。その利益は5万円に達したという。現在の東京都港区三田にある日本電気本社ビルの敷地と、その上にあった工場を、日本電気の創業者である岩垂邦彦が購入した金額が4万円だったことを考えると、矢頭の成功がいかほどのものだったかが分かる。国産の商用計算器として成功した量産第一号といっていい。
この普及モデルの現物が、いまも東京・上野の国立科学博物館に保存されている。
木でできたほぼ扁平な箱であって、いくつかのボタンと目盛りが付いている。この中に組み込んだ歯車とギアが連動して動作し、設定した目盛りに沿って一の位の歯車が動き、桁上がりをギアに伝え、10の位の歯車が目盛りをもって集計の数値を示す。
高級モデルは1977年に矢頭亮一の縁者が蔵を片付けているとき、偶然に発見された。金属でできた手回し式であって、第一段の数字をセットし、後方に備えられた演算機構があたかもタイプライターの打鍵面のように左右に動き加減乗除を計算していく。その仕掛けは「自動算盤」と名付けたようにヨーロッパの発明品に類似がなく、矢頭の独創であったことが分かる。
1905年(明治三十八)、矢頭は計算機で得た利益5万円を元手に東京・雑司ヶ谷(現在の豊島区護国寺付近)の工場を改造した。いよいよ念願の飛行機の実験・試作を始めるるのである。工場の改造が終わったのは2年後だったが、その間にも矢頭は飛行機の製作に着手し、工場が完成したころにはおおよその姿ができあがっていた。だが、尾翼を仕上げている途中、高熱を発して倒れた。
肋膜炎が悪化していたのである。
彼は病床にあっても飛行機の製作に細々した指示を与えた。だが病の進行が志を挫いた。矢頭はその完成を見ないうち、31歳で早逝した。研究はあとを継ぐものがなく、国産の計算機と飛行機の開発はここで途絶えた。
その死するを知った鴎外は嘆くこと激しかった。
「天馬行空」
の四文字には、その冥福を祈るとともに慙愧の念が滲み出ている。
【補注】
矢頭の飛行機 『豊前市史』掲載の「福岡日々新聞」に記事が載っている。それによると、《模型は長二間、幅五尺、全鋼鉄製で付属品等も完備したもので、製作費は9500円だった。実物が完成すれば「機体長53フィート、幅14フィート、両翼面積306平方フィートで、重量は1万3300ポンド、翼長は20フィート、最大速力時速400マイル、最小速力時速3マイル、通常速力時速200マイル」、「工事費3万円」》などとなっている。当時の3万円は現在の貨幣価値に換算すると2億~3億円に相当する。
2009-11-04 11:16
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