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国産計算機(1) [巻之四曙光]

 逸見治郎が東京の猿楽町で計算尺の複製に苦心し、矢頭亮一が東京・雑司ヶ谷の工場で独自の計算機の開発に取り組んでいた1902年(明治三十五)の12月、「国勢調査法」が成立した。
 国勢院の審議官・高橋二郎はそれ以前から、逓信省に対して調査に使う計算機を開発するよう働きかけていた。現役を引退したとはいえ、学術界と政府内に隠然たる力を持っていた杉亨二が後押ししたことは、すでに書いた。
 逓信省はこのため、アメリカからホレリス式計算機に関する文献を手に入れた。それをもとに、パンチカード機械装置を国産しようというのである。製作を指示されたのは、同省の電信燈台用品製造所の技師であった川口市太郎である。
 川口は福岡県久留米に生まれ、幕末の発明家で「からくり儀右衛門」の異称を取った初代田中久重に師事した。当時は「同郷」ということが、免罪符あるいは通行手形のように機能した。安政元年(1854)に師匠の田中とともに佐賀鍋島藩に招かれ、精錬所で蒸気機関や鉄砲の製造に従事した。
 のち幕府に取り立てられ、お台場に設置する大砲の鋳造を行い、明治初年に三輪自転車を独自に開発したことでも知られている。ただ一介の職人の扱いであったために、詳細な履歴が残されていない。
 ちなみに田中久重の弟子に当たる金子庄右衛門が田中の養子となり、二代目田中久重となった。その二代目田中久重が1873年(明治六)、東京・麻布に機械工場を建設し、1882年にいたって工場に「芝浦製作所」の名称をつけた。
 川口は田中久重の協力を得て製作に着手したが、英語の文献のみを頼りに実用に耐える機械装置を作るのだから、その辛苦は推測して余りある。作業はまず、アメリカから取り寄せた技術資料の翻訳から始まった。

 ・水銀を張った箱にゴム板の封をする。
 ・ゴム板の上に、穴を穿った厚紙を置く。
 ・厚紙には穴を穿つ場所が整然と並び、同じ数の針を植えつけた板を押し当てる。
 ・針は伸縮自在になっていて、障害物があれば下に下がり、穴があれば上に上がる。
 ・水銀液と針板に、プラスとマイナスの電極を取り付ける。
 ・厚紙に穴が開いている場所は針が水銀に接し電流が流れる。
 ・針の数だけスイッチがある。
 ・さらにスイッチの数だけ、時計の形をした回転式集計器を用意する。
 ・円周を百に区分し、長針が一回転すると短針が一目盛進む。

 1つの集計器で1万を数えることができる。さらに短針が1回転するごとに、もう1つの回転式集計器の長針が1目盛進むようにする。そうすることで1万×1万倍の集計が可能になる。
 理屈が分かれば、あとはお手のものだった。

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