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国産計算機(2) [巻之四曙光]

 彼は持ち前の器用さを生かし、1904年(明治三十七)、試作機を完成した。外観は「アリスモメートル」に類し、前面に複数の回転式集計器が備えられた。パンチカードを読み取り、それで桁上がりを算出するのである。
 国勢院は川口式集計分類機械装置を部内の計算業務に使ったが、最大の難問は厚紙の設計だった。初期のホレリスの計算機が使っていたパンチカードは3×5.5インチ(75×140ミリ)、そこに一列45個の穿孔欄があった。
 情報処理用語でいえば「カラム」ということになる。男、女で2カラム、年齢を10歳刻みにすれば11カラム、5歳刻みで22カラム、職業を20職種として20カラム。これで最初の一列が終る。
 次いで、大規模な調査の集計に適用するには信頼性の点で問題があった。機械装置の動作ではなく、パンチカードの製法と穿孔の技術が未熟だった。実際、昭和に入って設立された「日本ワットソン統計会計機械」(第二次大戦後、「日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ」、のち「日本アイ・ビー・エム」に改称)という会社が横浜の本社2階でパンチカードを国産化する作業に努力したが、そのときでさえ実用に耐えうる厚紙を作るには相応の苦心が要った。国勢院と逓信省は、パンチカードに使う紙の製法まで研究しなければならなかった。
 部内の計算業務に適用しつつ改良を加え、川口式集計分類機械装置は「逓信省式電気式集計分類装置」の名で制式に採用された。1920年の第1回国勢調査を目指して、芝浦製作所において11台が製作されている。11台あれば、おおむね内外地の人口を計算するのに充分と見積もったのであろう。実際、第1回国勢調査では1台で830万人分のデータを処理しているから、逓信省、国勢院の見積りは正しかった。
 一斉調査が終了し、いよいよ集計作業に入ろうとした1922年の9月、マグニチュード8の大地震が関東地方を直撃した。
 関東大震災である。
 深川あたりに発生した火災は隅田川を越え、虎ノ門にあった芝浦製作所の工場を襲った。このために11台のうち10台までが焼失した。国勢院の職員が受けたショックは大きかった。このとき国勢院は、ホレリス式の手動パンチカード装置と検孔装置をアメリカから輸入していて、それと川口式集計分類装置を連動させて、迅速な集計業務を行う計画だった。11台のうち10台までが焼失したのでは、集計・分類の計画を大幅に変更せざるを得ない。
 ただ1台のみ残った川口式集計分類機械装置の概観は飛騨春慶の塗りとおぼしく、アンティークなピアノと見まごうばかりである。これほど大きな装置が、よくぞ震災と第二次大戦の空襲を免れたものであった。
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