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国産計算機(3) [巻之四曙光]

 第二次大戦前の国産計算機として最も成功したのは「タイガー計算器」である。初期のモデルは手廻しの機械式だったが、のち電動式となり、国内ばかりでなくアメリカ、ヨーロッパにも輸出された。戦後にいたってもなお、最もポピュラーな計算機として販売され、戦前からの累計出荷台数は50万台を超えている。
 発明したのは大本寅治郎といった。
 1878年(明治十一)大阪に生まれ、1912年(明治四十五)の9月に「大本鉄工所」を大阪府西成郡豊崎町南浜に設立した。同じ年に日本鋼管が設立されている。
 鉄鋼業の確立は明治政府が
 「国家の基盤である」
 として、最も力を入れた分野だった。だがそのためには、巨大な投資が必要なうえ、生産した粗鋼を消費する産業を育てなければならなかった。その第一は、いうまでもなく軍需である。銃砲、重機および、艦船が中心だった。中でも四面を海に囲まれたこの列島の条件から、鋼鉄製の艦船の建造が手っ取り早かった。
 このため政府は1896年(明治二十九)に「造船奨励法」を定めて、総排水量700トン以上の鋼鉄製艦船を建造する場合、補助金を交付して造船業の育成・振興に努めた。その成果を代表するのは1898年に竣工した総排水量6000トンの貨客船「常陸丸」である。
 ただこの船の運命ははかなかった。就航からわずか6年後、日露戦争の1904年6月、日本海を航行中にロシア海軍の砲撃を受けて沈没している。
 1897年(明治三十)、政府は北九州八幡に「八幡製鉄所」を建設した。操業を始めたのは1901年(明治三十四)である。中国の大冶鉄山から輸入した鉄鉱石を原材料に、銑鉄から粗鋼までを一貫生産する体制がこうして整った。
 造船業の勃興を受けて、月島製鋼所、大阪鋳鉄所などが操業を開始し、1905年には広島県・呉海軍工廠で1万3000トンの戦艦「筑波」「生駒」が、翌1906年には横須賀造船所で1万9000トンの戦艦「薩摩」「安芸」の建造が始まった。世界で最初にガスタービンを搭載した「安芸」は、竣工当時、大型戦艦として世界最速を誇った。
 加えて、東京や大阪などで鉄筋コンクリート造のビルや、道路交通の増加に伴って鉄製の橋が建築されるようになった。鉄筋コンクリートのビルは、1907年(明四十)に完成した銀座・三越デパートがその最初であったといわれる。
 製鉄業の発展とともに鉄工業も盛んになったが、大本鉄工所が受注するのは単品生産の特注品が多かった。設計図に従って鉄を切断し、折り曲げるのである。受注は順調に伸びたが、彼は、
 「やみくもに受注をこなしているだけでは、企業として発展は望めない」
 と考えた。
 図面を読み違えるとたいへんな損害が生じた。長さ、厚さの異なる鉄の加工品を効率よく仕上げていくには、工程管理と原価の把握が欠かせなかった。
 1910年代の後半に入ると、産業界で「事務能率の増進」が啓蒙された。折から計数的経営手法がもてはやされ、彼も講習会などに参加して近代的企業経営の手法を学んだが、アメリカ製の統計会計機械装置はべらぼうに高価で、とても購入できない。そこで 彼は、簡易に計算できる安価な機械を作ろうと思い立った。
 ――それは1919年(大正八)のことであった。
 とタイガー計算器の社史は記す。

【補注】


タイガー計算器 本稿は主にホームページ『タイガー手廻式計算器資料館』(株式会社タイガー)によった。 URLはhttp://www.tiger-inc.co.jp/temawashi/temaw ashi.html
大本寅治郎 「寅次郎」とする表記もある。本書は株式会社タイガーの資料(ホームページ『タイガー計算器の歩み』同右)に基づいた。

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