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国産計算機(4) [巻之四曙光]

 1923年(大正十二)、4年5か月の歳月と多額の資金を投入して一号機が完成した。オドナーの手廻し式計算機を模倣したものだったが、10進法を採用し、計算する数字をカウンターに表示するなど、随所に使いやすさの工夫を凝らしていた。

タイガー計算器1号機.jpg

タイガー計算器の1号機
 計算の能力は最大20桁である。20桁といえば最大9999京9999兆9999億9999万9999までの集計ができることになる。
 大本寅治郎の「寅」を取って「虎印計算器」と命名して発売しようとした。ところが、持ち込んだ販売会社から
 「まず売れますまい」
 という返事を得た。
 「それは不審な。これほど精緻なマシンは世界広しといえどもありませぬぞ」
 「いやいや、さようなことはこの際、どうでもいい」
 「ますます不審である。理をうかがいたい」
 「しからば」
 と係は言った。
 「虎印という名前では、国産品であることが明らかではありませぬか。国産の計算器など、信用されませぬ。信用されねば売れぬのが商売」
 そこで型式を少し直し、「虎」を英語に置き換えて「TIGER」のブランドで売り出した。輸入モノのごとき名前に変えたとたん、その初日に245円の機械が売れたという。いかにも当時らしい。
 手廻し式計算機は、多くのメーカーが「時代遅れ」として手を出さなかった。ところが、大本は電動式への転換をひそかに考えていた。その研究は1937年(昭和十二)に実を結び、ここに世界唯一の電動式計算器として特許を取得することができた。すなわち、

 ●廻転計算器ニ於ケル廻転表示ノ桁送リ装置
 ●廻転計算器ニ於ケル廻転表示輪ノ廻転装置

 である。この特許はイギリス、ドイツ、アメリカでも認められている。
 アメリカのニューヨーク、サンフランシスコで開催された万国博覧会に出品したところ、各国の産業界から注文が殺到した。これに自信を得た大本は、1940年(昭和十五)10月、計算器の販売を専業する「タイガー計算器販売株式会社」を資本金18万円で創立した。本社を東京に置き、大阪をはじめ、札幌、仙台、名古屋、広島、福岡、京城、大連、台湾、新京、奉天、北京・上海などに出張所を設けた。
 第二次大戦の勃発で、「計算器の製造は不急の事業」とされ、軍需工場への転換が強要されたが、大本は一方で軍の要請に応えつつ、終戦まで計算器の生産を続けた。アメリカ空軍の空襲で東京、大阪、名古屋の本社・事業所を焼失し、さらに敗戦で京城、大連、台湾、新京、奉天、北京、上海の事業所を連合軍に接収されたものの、戦後復興の需要をいち早くつかみ、1947年には早くも東京・銀座西二丁目に鉄筋コンクリート造の本社を建設して、事業を再開している。
 手軽な事務用計算器として1970年まで生産され、ピーク時は年間4万台を売りまくった。電子計算機を使って計算業務を行っていた専門家でさえ、検算にタイガー計算器を用いた。電子計算機を購入できなかった設計事務所や研究所、大学などでは、もっぱらこの装置を利用していた。
 ハンドルを回し、チンと鐘が鳴れば答えが出た。
 だが、ICを搭載した電子卓上計算器が登場した。
 電子がその命脈を絶った。

※本稿は主にホームページ『タイガー手廻式計算器資料館』(株式会社タイガー)によった。URLはhttp://www.tiger-inc.co.jp/temawashi/temaw ashi.html

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