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和洋折衷(3) [巻之四曙光]

 先進の文物が請来されたとき、必ず旧の文化との間で摩擦が生じ、戦闘が起こる。仏教が伝わってこの列島に宗教改革が起こったとき、旧勢力を代表していた葛木、巨勢、物部といった氏族が滅び、蘇我、中臣、大伴といった士族が興隆した。
 幕末維新の混乱というのは、別の見方をすればその一つであるに過ぎない。士族の反乱とされる神風連の乱(1876年10月24日)、秋月の乱(同年10月27日)、萩の乱(同年10月28日)、西南の役(1878年2月~9月)などは、幕末維新の動乱に幕を下ろした戦いであった。
 明治政府が最初に取ったのは「模造」である。本質は丁髷(ちょんまげ)と二本差しの時代と変わっていないけれど、外見だけは「西洋」にしようと彼らは考え、頭を散切りにし行灯(あんどん)の代わりにランプを灯し、羽織・袴を洋装に改め、「西洋」の銃や時計や茶器を用いた。見よう見まねで田中久重が蒸気機関を作り、川口市太郎が三輪自転車を作り、その行き着いたところに「鹿鳴館」があった。
 次いで模倣が始まった。模倣とは、形ばかりでなく、精神の一部もそれに近似して初めて成立する行為である。つまり模倣には思想が必要であった。中村正直や福沢諭吉はその役割を担った。実をいえばここにおいて、日本は「和洋混交」の時代から脱し、いわゆる「和洋折衷」の時代に移行していく。西暦でいえば1900年が一つの境目であるかもしれない。

 〔明治二十一年一月卅日印刷、二月一日発行〕
 の年紀を持つ「東京名勝吾妻橋鉄橋之真図」と題した錦絵がある。発行者は「日本橋区馬喰町二丁目十四番地、綱島亀吉」とあって、桜の花が咲きそろう隅田川にかかった国内初の洋風鉄橋「あづまばし」を行き交う人々の姿を描いている。
 向こう岸に「吉原」、「富士縦覧所」、「金龍山」の文字が見える。金龍山というのは浅草寺のこと。
 橋の下には俵を山積みにした船が行き、橋の両脇にガス灯が立っている。シルクハットの御者が鞭を振るう二頭立ての馬車や洋傘を差した丸髷の婦人を乗せた人力車が走り、かと思えば頭から爪先まで、鹿鳴館風の洋装の母娘連れがいる。その近くに立ち止まって話をしている二人の男性を見れば、菅笠をかぶり、丁髷に脚半と、そのままの姿で東海道中膝栗毛に出てきてもおかしくはない。
 やや向こうに目を転じれば、羽織袴に山高帽、警官のそばに立つ少女は洋風の帽子に振袖、足元は革靴とおぼしい。絵そのものが和洋混交、和洋折衷の中間点にある。
 これがあと10年もすると、丁髷の男性はほぼ姿を消し、都市部で男性会社員が外出する際は背広、カンカン帽に革靴、商家の奉公人は和服、鳥打帽に雪駄か下駄という姿が一般的になる。農村部や地方都市で名士は羽織に山高帽というのが、公式の場に出席する際の服装だった。ただし女性は、都市部でも農村部でも相変わらず丸髷、島田に和服という姿が一般的だった。

【補注】


鹿鳴館 1883年(明治十六)、東京の麹町山下町に総工費18万円で建設された。レンガ造り2階建て・建坪410坪、イタリア・ルネッサンス風にイギリス風を融合した洋館だった。設計したのはイタリア人建築家のジョサイア・コンドル(Josiah Conder/1852~1920)で、鹿鳴館のほか東京国立博物館(旧帝国博物館)、ニコライ堂、岩崎弥太郎邸などを手がけている。

タグ:富国強兵
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