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興廃在此一戦(1) [巻之四曙光]

和洋混淆――幕末以来の景色や文物に「西洋」の文物が混在する状況――から和洋折衷への動きが加速された事情を考えると、やはり日清、日露の二つの戦争を無視するわけにはいかない。例えばそれは、大宅壮一がのちに満州事変を野球に仮託して評論したことに準じれば、たぶんこういうことである。
 小学校にはいったばかりの子どもたちが、とにもかくにも「野球」というものをやろうとチームを作った。「野球」というのは概ねこういうものだと分かっているのだが、練習をするにもルールが分からない。ボールもバットもミットもベースもなかったので、それぞれの家から思い思いに使えそうなものを持ってきた。
 隣の町から、ちょっとは「野球」というものを知っている人にきてもらって、コーチをしてもらった。子どもたちは意外に物覚えが良かったので、どうにかこうにか格好がついてきた。数年たつと体も大きくなったし、腕力、脚力もついてきた。みんなでアルバイトをしてバットやミットを買い揃えた。
 草野球のレベルに過ぎなかったが、周りの先輩たちが「チーム」として認めてくれるようになった。この場合でいえば、差し当たり「大日本チーム」であろう。それが、古豪で知られる「清チーム」と一戦を交えることになった。

 日清戦争(1894)は、朝鮮半島の独立をめぐる清帝国と日本の対立が引き金になった。歴史をたどれば、坂本龍馬が「日本は朝鮮国、中国などと連合して、大清帝国やヨーロッパ列強と対抗すべきである」と論じ、高杉晋作が上海にまで赴いて太平天国を指向したことにさかのぼる。
 龍馬、晋作は朝鮮国の独立運動を、
 ――応援すべきである。
 と論じたが、それは同じアジアの未開国としてともに連携し、西欧列強に対抗し支配から脱皮するという視点だった。ところが幕末維新の生き残りたちは、大日本帝国の領土拡張論にすり替えた。その第一は征韓論、第二は1885年の天津条約である。

【補注】


太平天国 中国の清朝末期、宗教結社「上帝会」の指導者である洪秀全(1814~1964、本名「仁坤」)が貧困階層の支持を得て1851年に建国した。南京を都として版図は華中・華南にわたり、共産的軍事組織を基盤として1864年まで存続した。
 国号は「太平天国」が一般的だが、「真命太平天国」「天父天兄天王太平天国」とも称した。孔子の教えとキリスト経を混交した新興宗教教団であって、「天国」はキリスト教に由来している。
征韓論 1873年(明治六)、西郷隆盛、後藤新平らが唱えた。国内に充満していた士族の不満をもって朝鮮国への開国圧力に転じようとしたが、国内の改革を優先すべきとする大久保利通らが強く反対した。この論争に敗れた西郷らは政府を去り、不平士族の決起に結びついた。最大の騒乱は1877年2月15日に始まった西南の役(~同年9月24日)だが、西郷隆盛が明確な外交方針を持って決起したわけではなかった。
天津条約 19世紀の天津は清帝国の外交窓口であったため、前後17件の国際条約が同地で締結されている。史上最も著名なのは1858年に英仏露米四か国との間に結ばれた条約であって、これによって清帝国は①キリスト教の布教の自由②列強四か国の使節団の北京駐在③四か国人の国内往来の自由④開港・公益場所の拡大――などを約束した。
 日本と清帝国が最初に結んだ天津条約は1871年の「日清修好通商関係条約」、次いで1885年に伊藤博文と李鴻章の会談で交わされた朝鮮国への干渉協定がある。
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