大日本帝国(4) [巻之四曙光]
〈国際ルール〉
このように書くと、大日本帝国は国際ルールを無視した非道外交をやってのけたかに見える。だが実際はそうではなく、大日本帝国政府は国際ルールに則って大韓帝国を支配下に置いたのである。
といっても、そこでいう国際ルールとは、欧米列強諸国がお互いにせめぎあいながら、相互にその利権を承認し合う帝国主義的互恵主義に基づいていて、支配を受ける側の理論は端から無視されていた。20世紀に入って列強が交わした条約の多くは、それに類するものである。
●1901年
ヘイ=ボンスフォート条約:イギリスがアメリカ合衆国に対し、中米で運河を建設・運営することを認める。1903年、アメリカ=パナマ共和国が運河工事について調印。
●1904年
モロッコに関するフランス=スペイン協定。
●1905年
カールスタード協定(スウェーデンからノルウェーを分離)。
●1906年
チベットに関する英清条約。
●1907年
英露協商(ペルシア、アフガニスタン、チベットの勢力範囲を決定)。
このうち相互対等のもとで国境や支配権を取り決めたのはカールスタード協定だけでしかない。この協定というのは1813年にデンマークとスウェーデンの間で取り交わされたキール条約を破棄するもので、これによりノルウェーはスェーデンとの連合を解消して独立国家となった。
それ以外はみな、条約・協定を結んだ当該国以外の地域や国にかかわることである。欧米列強が勝手に乗り込んできて、それぞれの言い分を主張し、話し合いをするのだが、パナマ共和国、モロッコ、チベット、ペルシア、アフガニスタンさらにはアフリカやカリブ海の諸地域は、列強の話し合いに参加することが許されていなかった。自分が所有する庭に井戸を掘るかどうかを他人に決められたのでは、憤懣やるかたないであろう。
大韓帝国の扱いについても同様だった。
1905年の7月27日、アメリカ合衆国は陸軍長官ウィリアム・タフトを「フィリピン視察」の名目で日本に派遣し、桂太郎首相との間である合意を取り付けた。それは
●フィリピンをアメリカが統治することは日本にとっても利益であり、日本はフィリピンに対していかなる侵略的意図をももたない。
●極東の全般的平和の維持にとっては、日本、アメリカ、イギリス三国政府の相互諒解を達成することが、最善であり、事実上唯一の手段である。
●アメリカは、日本が韓国に保護権を確立することが極東の平和に直接に貢献すると認める。
というものだった。「桂=タフト協定」がそれである。
同年8月、今度はイギリスが日英同盟の見直しに際して
――貴国の大韓帝国を保護国とするのを容認する代わりに、わが国のインドにおける権益を保障してほしい。
と申し入れた。
対して大日本帝国政府は
――ロシアに対してはフランス、ドイツ、イタリアが好意的だが、貴国は同調されないように。
とクギを刺した。イギリスはこれを了解した。
こうしてアメリカがアジアに保有する唯一の植民地であるフィリピンは日本の“人質”となり、中国におけるイギリスの権益は日本の軍事力を背景に保障されることになった。だけでなく、そのうちにアメリカ合衆国は「桂=タフト協定」だけでは安心できなくなった。
3年後の1908年、今度は国務長官エーリヒュ・ルートが駐米全権大使・高平小五郎と協議を再開した。このときアメリカ合衆国が示したのは、フィリピンだけでなくハワイにおけるアメリカの権益を日本に保障させることだった。「太平洋方面の現状維持に関する日米協定」がそれである。
このとき
――ハワイ。
という文字が大日本帝国海軍に記憶された。
むろん日本に否応はなかった。なぜならアメリカ合衆国政府はそれと引き換えに、満州における日本の権益を保全するというのである。
ウィリアム・タフト William Howard Taft/1857~1930。オハイオ州シンシナティ出身で1878年エール大学を卒業して陸軍に進んだ。フィリピン総督を経て1904年陸軍長官に就任、1909年第27代大統領となった。
高平小五郎 たかひら・こごろう/1854~1926六。岩手県一関の田崎家に生まれ、一関藩士・高平真藤の養子となった。開成学校卒業後、1873年工部省に出仕、1876年外務省に転じた。1892年以後ヨーロッパ各国の公使を歴任し、1899年外務次官、1900年アメリカ公使。ポーツマス講和会議に小村寿太郎とともに全権委員として出席した。1906年男爵、のち貴院議員に勅選され、1908年アメリカ大使となり、国務長官エーリヒュ・ルートとの間に太平洋方面の現状維持と清国における機会均等主義を定めた。
このように書くと、大日本帝国は国際ルールを無視した非道外交をやってのけたかに見える。だが実際はそうではなく、大日本帝国政府は国際ルールに則って大韓帝国を支配下に置いたのである。
といっても、そこでいう国際ルールとは、欧米列強諸国がお互いにせめぎあいながら、相互にその利権を承認し合う帝国主義的互恵主義に基づいていて、支配を受ける側の理論は端から無視されていた。20世紀に入って列強が交わした条約の多くは、それに類するものである。
●1901年
ヘイ=ボンスフォート条約:イギリスがアメリカ合衆国に対し、中米で運河を建設・運営することを認める。1903年、アメリカ=パナマ共和国が運河工事について調印。
●1904年
モロッコに関するフランス=スペイン協定。
●1905年
カールスタード協定(スウェーデンからノルウェーを分離)。
●1906年
チベットに関する英清条約。
●1907年
英露協商(ペルシア、アフガニスタン、チベットの勢力範囲を決定)。
このうち相互対等のもとで国境や支配権を取り決めたのはカールスタード協定だけでしかない。この協定というのは1813年にデンマークとスウェーデンの間で取り交わされたキール条約を破棄するもので、これによりノルウェーはスェーデンとの連合を解消して独立国家となった。
それ以外はみな、条約・協定を結んだ当該国以外の地域や国にかかわることである。欧米列強が勝手に乗り込んできて、それぞれの言い分を主張し、話し合いをするのだが、パナマ共和国、モロッコ、チベット、ペルシア、アフガニスタンさらにはアフリカやカリブ海の諸地域は、列強の話し合いに参加することが許されていなかった。自分が所有する庭に井戸を掘るかどうかを他人に決められたのでは、憤懣やるかたないであろう。
大韓帝国の扱いについても同様だった。
1905年の7月27日、アメリカ合衆国は陸軍長官ウィリアム・タフトを「フィリピン視察」の名目で日本に派遣し、桂太郎首相との間である合意を取り付けた。それは
●フィリピンをアメリカが統治することは日本にとっても利益であり、日本はフィリピンに対していかなる侵略的意図をももたない。
●極東の全般的平和の維持にとっては、日本、アメリカ、イギリス三国政府の相互諒解を達成することが、最善であり、事実上唯一の手段である。
●アメリカは、日本が韓国に保護権を確立することが極東の平和に直接に貢献すると認める。
というものだった。「桂=タフト協定」がそれである。
同年8月、今度はイギリスが日英同盟の見直しに際して
――貴国の大韓帝国を保護国とするのを容認する代わりに、わが国のインドにおける権益を保障してほしい。
と申し入れた。
対して大日本帝国政府は
――ロシアに対してはフランス、ドイツ、イタリアが好意的だが、貴国は同調されないように。
とクギを刺した。イギリスはこれを了解した。
こうしてアメリカがアジアに保有する唯一の植民地であるフィリピンは日本の“人質”となり、中国におけるイギリスの権益は日本の軍事力を背景に保障されることになった。だけでなく、そのうちにアメリカ合衆国は「桂=タフト協定」だけでは安心できなくなった。
3年後の1908年、今度は国務長官エーリヒュ・ルートが駐米全権大使・高平小五郎と協議を再開した。このときアメリカ合衆国が示したのは、フィリピンだけでなくハワイにおけるアメリカの権益を日本に保障させることだった。「太平洋方面の現状維持に関する日米協定」がそれである。
このとき
――ハワイ。
という文字が大日本帝国海軍に記憶された。
むろん日本に否応はなかった。なぜならアメリカ合衆国政府はそれと引き換えに、満州における日本の権益を保全するというのである。
【補注】
ウィリアム・タフト William Howard Taft/1857~1930。オハイオ州シンシナティ出身で1878年エール大学を卒業して陸軍に進んだ。フィリピン総督を経て1904年陸軍長官に就任、1909年第27代大統領となった。
高平小五郎 たかひら・こごろう/1854~1926六。岩手県一関の田崎家に生まれ、一関藩士・高平真藤の養子となった。開成学校卒業後、1873年工部省に出仕、1876年外務省に転じた。1892年以後ヨーロッパ各国の公使を歴任し、1899年外務次官、1900年アメリカ公使。ポーツマス講和会議に小村寿太郎とともに全権委員として出席した。1906年男爵、のち貴院議員に勅選され、1908年アメリカ大使となり、国務長官エーリヒュ・ルートとの間に太平洋方面の現状維持と清国における機会均等主義を定めた。
2009-11-06 13:13
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