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火事場泥棒(2) [巻之四曙光]

 〈袁世凱〉

 1914年の8月4日、ドイツ帝国に宣戦を布告したイギリス政府に対して、加藤は駐英日本大使館を通じて、「同盟国として対独宣戦を布告すべきか」と質問した。
 その回答は、
 「イギリスは極東への戦火の拡大を希望しない」
 というものだった。
 ところが7日にいたって、イギリス政府から
 「支那海におけるドイツ帝国の武装商船を、日本帝国海軍の力をもって撃滅してほしい」
 という要請が届けられた。
 ただちに加藤が首相大隈重信に意見を具申すると、大隈はいった。
 「あとのことはあとのことだ」
 イギリスの要請があったことにしてドイツ帝国と戦争を始めておけば、あとはどうにでもなる、という意味だった。
 大隈と加藤の方針を聞いた元老の山県有朋は、
 「武装商船だけに限ることはあるまい。青島(チンタオ)を攻めるのが当然ではないか」
 とぶち上げた。
 青島はドイツ帝国の極東における本拠地である。参戦がこれで決まった。
 山県有朋の意見は、軍略としては正しかった。ところが、ただちに青島を攻撃することはできなかった。青島はドイツ帝国が中国政府から租借しているに過ぎず、攻撃を行うには中国政府の了解を取らなければならない。

 日本政府からの申し入れを受けて、中国大総統の袁世凱はイギリスに
 「日本の突出を抑制するよう、頼む」
 と要請し、イギリス政府は日本政府に対して
 「行動は海上貿易の安全確保に専念されたい」
 とする要望を発した。
 東洋の駄々っ子に火遊びをされてはたまらん、と言いたかったに違いない。
 だが加藤は譲らなかった。
 日本が参戦するに当っては、イギリスと中国政府との間でやり取りがあった。結局、日本のゴリ押しが通って、8月23日にドイツ帝国に宣戦を布告、9月2日に日本陸軍が山東省竜口に上陸を開始して山東半島を占領し、次いで10月14日までに日本海軍が赤道以北のドイツ帝国領南洋諸島の占領を完了した。
 対独宣戦は、その本拠地・青島を占領した時点で終結すべきであった。

【補注】


袁世凱 えん・せいがい/1859~1916。河南省項城に生まれ、科挙の試験に二度落ちたため官吏を諦めて軍人となった。1882年朝鮮の壬午騒乱で大院君を天津に幽閉し、1884年には朝鮮甲申事変を鎮圧した。新建陸軍の責任者に抜擢され、西太后の信任を得た後、義和団事件鎮圧で列国に知られた。1901年直隷総督兼北洋大臣、清王朝滅亡後、孫文を追い落として中華民国第2代臨時大総統に就任した。1916年元日に皇帝の地位に就き、国号を「中華帝国」と改めた。しかし列国の支持がえられず3か月で帝位を取り消し、その3か月後に急死した。

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