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代理店契約(3) [卷之六游魚]

〈銀座の三偉人〉

 機械の操作実演は水品が担当し、それぞれの機械装置の機能・性能、使用方法などを解説した。今でいう「プレゼンテーション」は、機械装置の性能や操作方法に力点を置かず、レンタル制度のメリットについて強く理解を求めるものだったという。
大きな期待をかけた展示会だったが、数百人の来場があったにもかかわらず、受注に結びつきそうな引き合いは一件もなかった。森村市左衛門は起死回生の受注拡大をねらったものの、これでは自社の経営幹部を説得することができない。事業を継続するにはリスクが大きすぎた。
 そこで彼は、同じ銀座界隈で輸入事務機器販売を営んでいた黒澤貞次郎に相談を持ちかけた。このとき黒澤は、関東大震災の打撃からようやく立ち直ったときだった。
 「CTR社の条件次第では、代理店契約を肩代わりしてもいい」
 という回答だった。
 この黒澤貞次郎という人物は1875年(明治八)、東京・京橋の生まれというから、ホレリス式統計会計機械装置の営業権を譲り受けたときは52歳、当時の平均年齢でいえばすでに初老の域に達していた。真珠の御木本幸吉、服部時計店の服部金太郎と並んで「銀座の三偉人」とも称された。3人はともに、若いころ辛苦を経験し独創的な仕事で成功した。その共通点が、お互いを引き寄せたといえなくもない。
 ちなみに御木本幸吉は安政五年(1858)三重に生まれ、家業のうどん屋を継いだ。1896年(明治二十九)一念発起して伊勢・英虞湾に浮かぶ多徳島に真珠の養殖場を設け、研究に着手した。1905年、真円真珠の養殖に成功した。またたくうちに世界のパール市場の6割のシェアを獲得した。
 ずっとのちのことだが、第二次大戦中、真珠は奢侈品ということで養殖を禁じられた。しかし幸吉はこれに服せず養殖を続けたために、「非国民」の罵声が浴びせられた。1954年没、享年96。
 服部金太郎は万延元年(1860)江戸に生まれ、夜店の小僧から時計の修繕工になった。1881年に独立して服部時計店を開業し、1887年に現在の銀座4丁目角に店を構えた。当初は輸入時計を専門に扱ったが、1892年精工舎を興して柱時計や置き時計などの組み立てを始めた。1913年(大正二)国産初の腕時計「リーレル」を完成させ、第一次大戦の時、スイスの時計産業が打撃を受けた肩代わりとして輸出することに成功した。日本の精密機械技術を世界に知らしめるきっかけとなった。のち貴族院議員。1934年没、享年73。
 三人は回り持ちでそれぞれのオフィスに集まっては、食事をしたりお茶を飲んだりした。
 このうち、御木本幸吉も森村市太郎、開作の世話になっている。彼が養殖に成功した真珠は森村商事が輸出窓口となり、アメリカで大評判となった。神秘的な輝きを持つ真珠はまさに欧米人が喜びそうな“日本的なるもの”だった。「ミキモトパール」の名が世界に知られたのは、森村商事によるところが大きい。

【補注】


日本的なるもの 20世紀に入るとヨーロッパにおけるジャポニズムの興味は一時期の絢爛豪華な装飾性を脱し、日本画の簡素さや俳句・茶道の侘び・寂びに移っていた。

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