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代理店契約(4) [卷之六游魚]

 〈エリオット・ハッチ〉

 御木本、服部はともに典型的な明治立志伝中の人物だが、黒澤は一風変わっている。
 尋常小学校を卒業すると、10歳で日本橋の薬問屋に丁稚として奉公した。独力で英語を学び、16歳のとき、奉公で貯めた金をすべてはたいて単身で渡米した。アメリカのゴールドラッシュは終息していたが、坂本龍馬が言ったと伝えられる「平民でも統領になれる国」のイメージが海を渡ることを決意させたのに違いない。
 シアトル魚港で魚洗いや鉄道工夫の仕事で小金をため、シカゴ市を経由してニューヨーク市にたどり着いた。ニューヨーク市では、事務機器販売会社の経営者宅で下男として働いた。雇い主はタイプライターの販売を行っていたエリオット・ハッチである。ハッチは黒澤の勤勉さと能力を評価し、タイプライター・メーカーのコロナスミス社に就職を世話した。
 1901年(明治三十四)に帰国するとすぐ、東京市京橋区弥左衛門町1番地(現中央区銀座4―2)に「黒澤貞次郎商店」の看板を掲げた。アメリカで世話になったエリオット・ハッチ社とタイプライターの代理店契約を結んで輸入事務機器の販売を始めたのである。自動番号押印機や文書ファイリング機、万年筆、カーボン複写紙など事務機器・用品の販売で事業は順調に拡大した。
 帰国した年に、彼は英文タイプライターに工夫をほどこしてカナ文字のタイプライターを試作した。また滞米中に会った逓信省の役人から得た知識を応用して、電送印字装置の開発にも挑戦している。のち、1928年(昭和三)に緑綬褒章の栄を受けたとき、カナ文字タイプライターの開発を思い立った動機を、次のように説明している。

 アメリカの子供達が文字の簡易のため、如何にもたやすく、小学教育を受けつつあるを目撃して、我が国で も漢字を廃し、かなもじを採用したらばと強く感じたのが、タイプライター業に従事する動機でありました。

 文字の理解に着目したのは卓見というべきであった。知識を得、情報を共有し、何かを創り出し、それを他者に伝えることこそが、デモクラシーの根源であることを、黒澤は気がついていた。しかし彼は偏屈に「かなもじ」にこだわらなかった。漢字の簡素化を訴え、日常生活に必要な漢字とはどういうものかを探ろうとした。当用漢字の考え方に通じるものがある。
 この考え方は逓信大臣だった前島密に伝達され、前島はそれをヒントに漢字を簡易化することを思いついた。同時に田舎から出てきた勤労者が郷里に送金するための仕組みを考えていた前島は、その手始めに
 ――業務に使う数字を漢字からアラビア数字に変更すべきである。
 と説いた。漢数字では誤記や勘違いが発生し、かつ集計に手間がかかる。算用数字という呼び名がここから生まれた。

【補注】


前島 密 まえじま・ひそか/1835~1919。越後国(新潟県)高田藩士上野家に生まれ、旗本前島家の養子に入った。はじめ医学を志し幕府の函館諸術調所で洋学を学び、1869年(明治二)維新政府に出仕した。翌年ヨーロッパに渡って近代諸制度を見学した経験を生かして郵便制度と郵便為替・貯金精度および、電話・電信の基礎を築いた。1881年(明治十四)大隈重信とともに下野し、北越鉄道、東館汽船、石狩石炭、日清生命保険などの経営に参画した。黒澤貞次郎が「かな文字」を提言したのは、前島は一時的に逓信省に復帰したときだった。

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