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黒澤村(3) [卷之六游魚]

 〈新工場〉

 震災からほどなく、日本銀行を窓口に1億円規模の「震災手形割引損失補償」が実施され、また周囲の励ましもあって、黒澤は再起を決意した。従業員総出で銀座の本社ビルを清掃し、内装を改め、並行して蒲田に自ら設計施工による新工場を再建した。
 新工場は1926年に完成したが、ただモノを生産する場所にとどまらなかった。敷地の内には、食堂、浴室、購買部を含む従業員向けの福利厚生建物、車庫、変電所、ポンプ室、材料倉庫、幼稚園、小学校、社宅、池、児童プール、貯水池、給水塔、水道設備などが装備され、自衛の消防団まで編成されていた。従業員の生活にかかわる一切を企業が用意するというのは、当時はよほど珍しかったと見えて「黒澤村」という呼称がついた。
 森村開作、市左衛門父子と同様、黒澤もクリスチャンであって、従業員の福利厚生を充実すること、社会に利益を還元することが、成功した事業家のつとめ、という認識を持っていた。のちに大工場が同じことをやったのは従業員を確保することと、生活の隅々にまで軍隊的組織を浸透させて運命共同体的意識を持たせるのがねらいだったから、質的には大いに異なる。
 事業の再建では、まず冷徹果敢に支配人・田中以下の高給者の退職を促して――田中や八城の述懐では、店のことを思って退職したことになっているが、黒澤の立場では全く別の表現になる――負担を軽減し、他方ではアメリカ式のカタログ販売で受注を増やしていった。店が取り扱っている商品のすべてを「タイプライターと関連器具」、「近代事務用機械」、「文書の記録と整理」に分類し、3種のカタログに記載して取引先に配布した。
 これだと取引先は、何かの必要が生じたとき、カタログから商品と値段を確認して注文を出すことができた。こんにち、事務器や文具、家電製品の販売でカタログが重きを占めているのは、黒澤商店の成功がきっかけを作った。
 第一次世界大戦後の不況と昭和恐慌の打撃を受けたのは黒澤商店だけではなかった。森村組も同様に、重大な打撃を受けていた。このため七代目市左衛門は1926年、森村組の業務を日本陶器に統合し、翌年には森村銀行を3菱銀行に売却して事業を再編した。貿易業や金融業は明治の黎明期を脱し、三井、三菱、住友といった巨大資本がなすべき事業に変わったことを見抜いていた。CTR社製統計会計機械装置の営業権を黒澤商店に譲渡したのはその一環だった。

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