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黒澤村(4) [卷之六游魚]

 〈プレトマイヤー〉

 1926年12月、CTR社――正確に言えば、その2年前、CTR社は「インターナショナル・ビジネス・マシーンズ」に社名を変更していた――の副社長プレトマイヤーが来日すると、森村市左衛門(開作)は代理店契約の打ち切りを申し出るとともに、黒澤貞次郎を紹介した。ニューヨークの中山が事前に根回しを済ませてあったと見えて、プレトマイヤーは責任契約高条項について「不問」とし、既存の日本陶器、三菱造船を含む全営業権を黒澤商店に譲渡することで合意が成立した。
 3社の合意文書は、東京・日比谷の帝国ホテルで調印された。契約解除文書にブレトマイヤーは次のように記している。

 私どもは、貴社が過去において、当社のためになした一切および、個人的に小生に尽された御好意にたいし大いに敬意を表します。

 森村商事から黒澤商店への営業権移譲は円滑に行われた。
 新しい契約は1927年1月に発効し、IBM社の出資で「日本ワットソン統計会計機械株式会社」が設立される1937年6月まで、国内におけるホレリス式パンチカード統計会計機械装置の販売は、黒澤商店が担うことになる。
 すでに50歳の声を聞いていた黒澤貞次郎には、失敗が許されなかった。彼は1919年(大正八)にバロース社と契約して金銭登録機や会計機の販売を開始していたし、本人がバロース社の機械を使って従業員の給与を計算していたため、統計会計機械装置の効用に理解があった。同社とバロース社との関係は、1941年12月に日米が開戦するまで続いている。
 森村開作からの申し出に応じたのは、「最後の賭け」のつもりもあったであろう。このため、森村商事からCTR社の統計会計機械装置の営業権を引き継ぐに当たっては、CTR社に「一年間に5台」という契約条項を削除させるなど、実業家としてのしたたかさも発揮している。
 余談だが、東京・銀座の黒澤商店本社ビルは第二次大戦の空襲でも焼けなかった。終戦後、連合軍総司令部(GHQ)に接収され、国際赤十字社の本部として使われた。1952年(昭和二十七)2月に接収が解除され、改修は12月に終了した。
 黒澤商店として業務を再開した矢先、1953年(昭和二十八年)1月、自宅に年賀に訪れた人の接客中に倒れた。脳溢血だった。享年78。死後、従六位勲五等瑞宝章が贈られた。黒澤は一時代前の成金的実業家の発想を、ついに持つことがなかった。独創的な手法で事務用機械の市場を切り開いた立身出世の実業家として歴史にその名が刻まれている。
 黒澤の死後も黒澤商店は輸入事務機器の販売で堅調に事業を継続した。だけでなく、蒲田工場の一角に設けた研究所で「ページ式印刷電信機」を製品化した。現在のファクシミリの原型である。これが母体となって197年(昭和三十二)2月、資本金1億円で「黒沢通信工業株式会社」が設立され、1970年4月には受託計算サービスとソフトウェア開発を行う「株式会社クロサワ・コンピュータ・センター」がスタートしている。
 ちなみに黒澤が建てた黒澤商店本社ビルは、現在もある。ただし、老朽化したため再建され、1階にオーダー紳士服で有名な「英国屋」が入っている。また、東京・蒲田の「黒澤村」敷地は、のちに富士通が買い上げて、ここにソフト技術者の研修とコンピューター・センターを設置した。「蒲田システムラボラトリ」の名をあげれば、おおまかな場所が分かるであろう。

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