SSブログ

2対1(2) [卷之六游魚]

 鉄道省は日米開戦とともに男子職員が徴兵されたため、1942年以後、その運用は女子職員によって継続された。だが1945年5月の空襲で機械装置およびパンチカードのほとんどが焼失してしまった。パンチカードとは、プログラムとデータそのものだったわけだから、戦災はすべてを灰にしてしまったことになる。そのうちの自動穿孔機、分類機、集計印刷製表装置が1台ずつ、大阪交通博物館に残っている。 のちの記録だが、1944年5月の時点で国内に設置されていたのは、パワーズ式が1038台、ホレリス式は518台だった。ほぼ2対1の比率となる。
 パワーズ式がホレリス式の倍のユーザーを維持できたのは、その販売方式にあったといわれている。
 「ホレリス式がレンタル制だったのに対し、パワーズ式は売り切りだった。売り切り方式は、当時の商慣習にフィットしていた」
 というのである。
 たしかにその通りであろう。
 実をいうと1918年、国勢院はパワーズ式統計機械装置を輸入しようと検討した。ところがパワーズ・アカウンティング社もまた、レンタル制を理由に国外での設置を認めなかった。国勢院はいったんあきらめかけたが、三井物産ニューヨーク支店に駐在員として赴任したばかりの吉澤審三郎がパワーズ社を説得した。
 「三井物産が機器を購入し、これを利用企業に転売するかたちではどうか」
 と打診したところ、パワーズ社からは「可である」という返事があった。レンタルにした場合、月々の入金を管理しなければならない。まして相手は東洋の得体の知れない新興国ではないか。国勢院は会計項目に「賃貸料」がなかった。このために、結局は導入を断念したが、三井物産はそれがきっかけとなって東洋代理店の契約を結んだ。
 ちなみに、吉澤審三郎は以後、いいt貫してパワーズ社の計算機とかかわりを持った。パワーズ社はタイプライターと機関銃のレミントンランド社に吸収され、そのレミントンランド社も農機具メーカーのスペリー社に買収されて「スペリーランド」と社名を変えるが、日本での窓口は一貫して吉澤だった。第2次大戦後、独立して「吉澤会計機械」(のち日本ユニバックを経て「吉沢ビジネス・マシーンズ」代表取締役社長)を設立している。
 月刊「マネジメント」誌(マネジメント社)の1929年4月号は、「ホレリス式会計機」について次のように記している。

 IBMは付属品のキイ・パンチ以外の機械の本体を売らず、機械を貸与して、サービスを売ろうとするものであるが、之は何といっても不便であって、本機が我国で使用せられない原因の一つとなっている。

 この論説は、パワーズ式(三井物産)とホレリス式(黒澤商店)のビジネスモデルの違いを正確に指摘したものであった。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

2対1(1)2対1(3) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。