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拡大する矛盾(1) [卷之六游魚]

〈山東出兵〉

 北川宗助が黒澤商店に入る前、まだ暁星中学の制服を着ていたときの話である。
 田中内閣は、山東省における邦人の生命・財産の保護を優先することに方針を変更、5月28日に歩兵第三十三旅団、さらに歩兵第八旅団の主力部隊が青島に上陸した。 国民政府軍は1928年4月、三度目の北伐を開始し、山東に再び戦火が及ぶ危険性が高まった。田中内閣は歩兵三個中隊、さらに第六師団を山東に上陸させた。これが第二次山東出兵となる。
 日本軍ははじめ、蒋介石軍を刺激することを避けていた。ところが5月3日、たまたま中国兵と日本軍警備兵との間に衝突が起こり、またたくうちに戦闘に拡大した。結果として日本軍は国民政府軍を駆逐し、6月に入って新たに第三師団が上陸した。
 他方、田中内閣は張作霖に対して、満州に引き揚げるよう勧告し、張も合意した。ところがこれを由としない日本の関東軍は、張作霖を始末し、一気に国民政府軍をも下して中国を軍の支配下に置こうと企てた。
 6月4日、張作霖の乗った列車が奉天に近づいたとき、鉄道に仕掛けられていた爆弾が爆発した。軍が内閣の意向を無視して暴走を始めた第一歩だった。この知らせが内閣総理大臣田中義一のもとにもたらされたのは、同日の深夜だった。
 田中は、「関東軍か……」と直感し、翌朝、ただちに調査を開始するよう指示を出した。
 調査はしばしば陸軍の妨害にあったが、翌1929年7月、調査団は張作霖爆殺事件が関東軍によるものであると断定した。首謀者として河本大作という関東軍高級参謀(大佐)を特定もした。ところが、陸軍は「統帥権」を盾にして抵抗した。「皇軍にかかわる事項は天皇の大権に属する」というのである。このためにその処分は「停職」にとどまった。これが田中内閣の命取りとなった。だけでなく、明治以来の近代日本を台なしにするきっかけとなった。
 大村益次郎や大山巌が目標としたのは、近代的国家――この場合、「帝国主義的」という形容詞が必要だが――における近代的軍事力の整備だった。彼らは「神兵」を作ろうなどとは考えなかった。
 天皇も実は同じように考えていた。田中は宮中に呼び出され、天皇から「処分が生ぬるいのではないか」と叱責を受けた。
 翌日、田中内閣は総辞職し、代わって組閣したのは民政党の浜口雄幸だった。浜口は第一次加藤高明内閣で蔵相、若槻内閣でも蔵相、のち内相を経験しており、政党政治の刷新、景気の回復に期待が寄せられた。この期待を受けて7月9日に発表されたのが「十大政綱」である。
 十大政綱では、対華外交の刷新、軍縮の促進、財政の整理、金本位制への復帰などが掲げられていた。このうち、金本位制への復帰は、第二次世界大戦前の日本政府による経済政策に混乱をもたらした以外、何ら成果をあげることができなかった。
 実のところをいうと、19世紀から20世紀初頭まで、国際貿易はすべて金本位で行われていた。つまり、金の輸出入は民間の自由に任されていた。各国の通貨価値を裏付けるのは、各国政府が保有する正貨、すなわち金の保有量だった。日本は国内産業が軌道に乗った1897年に金本位制に移行し、国際社会の一員となった。
 ところが第一次世界大戦でヨーロッパ各国が金輸出を禁止し、1917年9月にアメリカも金輸出禁止に踏み切ったため、日本もこれに同調した。1919年末に日本政府が保有していた金は20億円相当であって、金本位制に復帰しても十分に耐えることができる力を保っていた。
 関東大震災によって円の対ドル相場が百円=38ドルに急落した。このため、1920年代に入って政府保有の正貨は、日本銀行10億円、在外3億円の計13億円まで減少していた。だが、商社や紡績業は金本位制への復帰を強く要望した。また三井、住友、三菱、安田といった財閥は満州などへの資本輸出を拡大する目的で、1928年10月、金輸出の自由化の即時断行を要求した。
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