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拡大する矛盾(5) [卷之六游魚]

 9月21日から11月4日までのおよそ1か月半に、横浜正金銀行は3億4200万円相当の円をドルに交換した。そのときの上位4社は次のようである。

 ・ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行 3700万ドル
 ・三井銀行 2135万ドル
 ・三井物産 1423万ドル
 ・住友銀行 1235万ドル
  だけでなく、日本企業の海外拠点へのドル送金も行われた。

 ・10月 1億3500万ドル
 ・11月 1億4700万ドル
 ・12月  2300万ドル

 結果として、ポンド、ドルに対して円が切り上げられた。1931年12月の時点で1ドルは28円12銭、つまり2年間で約2倍に跳ね上がった。海外の品物が半値で輸入できるということは、日本からの輸出品は倍に値上がりすることを意味している。輸出に依存していた産業は、たちまち経営難に陥った。ここにアメリカ経済の混乱が追い討ちをかけた。
 輸出は極端に低迷し、日本の主要産業は操業率の引き下げに追い込まれた。セメント・鉄鋼は50%台、肥料・晒粉は40%台、紡績・製紙は30%台にまで落ち込んだ。生糸の単価指数は、85.3から59.7に、米価指数は28.92から18.36に暴落した。1929年に139億4100万円だったGNPは、1930年に112億4500万円に、31年には16億7800万円に減少し、株価指数は104.5から71.5、31年は53.0にまで落ちた。
 企業の倒産とリストラだけは井上が予想した以上の効果をあげた。民営工場労働人員指数は29年91.1、30年82.2、31年74.4と悪化した。実収賃金指数は29年103.9だったが、30年には98.7、31年90.7に低下した。
 東京駅で浜口雄幸首相が狙撃されたのは、金解禁からわずか10か月あまり後の1930年11月14日だった。犯人は、右翼団体愛国者の構成員佐郷屋留雄であって、その背後には「一人一殺」を合言葉にした政治テロ組織・血盟団がうごめいていた。
 1930年4月に鐘淵紡績(現カネボウ)は全従業員の給与を一律で4割カットすると発表し、ここに大争議が勃発した。9月には東洋モスリン(現東洋紡)が東京・亀戸工場の人員を大量に削減したことから大規模なストライキが発生、11月には富士紡績川崎工場の従業員が賃下げに反対してストライキを敢行した。
 不況に強い職業であるはずの教員も、687町村で8782人の給与が未払いとなり、都市部では仕事を失った人が全就労人口の5.3%に相当する約38万人、農漁村地域では欠食児童が20万人に達する深刻な事態となっていた。
 われわれ昭和二十年代生まれの者は、はガツガツと物を食べる人を見ると、
 ――欠食児童みたいだ。
 などと言うことがある。
 〔飢える〕ということがない現在、この言葉はあくまでも冗談として使われる。だが当時の状況は悲惨だった。水を飲んで腹を満たし、木の根を煮て食するようなことも珍しくなかった。米の一粒が手に入らなかったのだ。
 本来であれば就労しているべき若年層ですら、郷里に帰っても仕事がない、というありさまだった。十年越しの不況から抜け出すため、企業経営者は経費を削減するために人員整理を進めるほかなかった。展望を失った「エログロ・ナンセンス」が流行し、まさに小津安二郎の映画『大学は出たけれど』の時代だった。
 1931年12月に組閣した犬養毅は、金融恐慌を「モラトリアム」という裏技で切り抜けた高橋是清を蔵相に起用し、金輸出再禁止を即刻実施して事態の収拾を図った。経済はやや回復に向かうものの、日銀の正貨準備高は3億円にまで減少していた。過去に実施した経済政策では、社会・経済全体を覆う不透明感を打破するには力不足だった。

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