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編年(1) [序叙]

「記録」というものが多く残されなかった時代(ないし、同時代資料が多く残存していない時代)を正しく解明するのは、至難の業である。日本史上、最大の謎である「邪馬台国のことを記す同時代資料は、司馬炎が樹てた晋王朝の陳寿が残した〔魏志倭人伝〕に含まれる約1800文字でしかない。 そこには次のような記事が見える。

  ●竹木・叢林多く、三千許りの家有り。
  ●差々田地有り、田を耕せども猶食するに足らず。
  ●草木繁茂して行くに前人を見ず。
  ●好んで魚鰒を捕らえ、皆、深浅となく水に沈没し之を取る。

 このような記事から、史学者は、帯方郡の郡使が松浦半島に上陸したのは夏の盛りであったろう、と推測している。
 前を行く人が見えないほど草木が茂っていたのだから、そうであったに違いない。事実、海上自衛隊や気象庁が観測している季節ごとの波高と海流、風向、風速などを見ると、7、8月の玄界灘は穏やかな日が続く。日盛りの中、帯方郡使節が女王・卑弥呼の都を目指した。一行の荷物を背負って行く役夫たちの額からしたたる汗の匂いすら匂ってくる。帯方郡使者の出張報告書からの引用であろう。
 また、魏の皇帝が女王・卑弥呼に下した詔書を原文のまま記載してもいる。中国の史書が蛮地の記事に皇帝の詔書を載せるのはあまり例がない。



【補注】


邪馬台国 魏志倭人伝によると、3世紀中葉の倭は女王・卑弥呼のもとに三十余の小国が連合していたという。その都が置かれた邪馬台国の所在地をめぐって諸説が入り乱れいまだに定見がない。1971年11月、親鸞研究家の古田武彦が文献を詳細に検証し、「邪馬台国」という表記は間違いであることを指摘した。以後、多くの論説は「邪馬臺国」と改めている。推理小説まがいの所在地探しが耳目を集めるが、むしろこの政治集団がのちの大和(やまと)とどうかかわるのかといった議論が重要であろう。
 ちなみに、のちの日本を指していた中国の古称〈委〉もしくは〈倭〉が、中国古文献に登場する最初は、紀元前3世紀(ないしそれ以前)の成立と考えられる『論衡』『山海経』である。ただしそれが現在の日本列島の一部を指しているのか、ある一定の文化・言語を共有する部族を指しているのかは議論が分かれる。
魏志倭人伝 厳密には『三国志」魏志東夷伝倭人条。
帯方郡 漢の時代に朝鮮半島西北部に置かれた楽浪郡ののちの名称。郡役所は現在の平壌付近にあったとされ、魏・晋時代、東夷諸族はここを窓口に中国王朝と交易した。魏の帯方郡使が倭地を訪問したのは240年と247年だった。

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