SSブログ

編年(2) [序叙]

 このようにかなり正確な記述が確認できる一方、

  ●郡より女王国に至る万二千余里。
  ●其の道里を計るに、当に会稽東冶の東に在るべし。
  ●又侏儒国有り。其の南に在り。人の長三、四尺。

 など、実際の地理と合わない記述もある。
 帯方郡使を受け入れた倭の側の事情を考えると、地理を知られたくなかったし、また国土が広大であるかに見せかけたかった。一方、中国側にも、倭地が実際以上に南にあるべきとする認識があった。
 となると、〔南渡一海千餘里……又渡一海千餘里……東南陸行五百里……東南百里……東行百里……〕という行程の記載がどこまで正しいか。魏・晋時代の長里・短里をもって実際の地図にあてはめること自体、空しい作業であるかもしれない。
 まして実際に倭の地を踏んだ帯方郡使の原資料にさえ、想像や類推、誤解が混入しているであろうし、また陳寿が生きた時代の信仰や政治情勢などが微妙に影響している。そうしたことどもを勘案して邪馬台国の所在地を探るには、あまりに情報が少ない。
 そこで歴史の研究は、3つのアプローチによって相互に補足し合うことになる。

 一つは物にかかわる知見。
 一つは文献に基づく検証。
 一つは総合的な評価。

 物にかかわる知見とは、時代層から共通して発見される特定の利器(例えば石器や土器)を、その塑性や形状、文様などで分類し、比較して先と後を定める。これは原始・古代に限らず、有史に入ってもなお有効な手法であって、一般には「考古学」と称され、先後を定める作業を「編年」という。その場合、要となるのは編年の指標を何に定めるかである。

【補注】


長里と短里 漢の時代、約1.5mを一歩とし、360歩で一里とした。魏・晋もこれを継承しつつ、一歩約30㎝、300歩で一里とする短里も用いていた。漢制の一里は540m、魏・晋の短里は90mである。同じ「里」という単位でありがら二つの長さが生じたのは、漢制の長里は馬の歩長を基準に距離を表わすのに用い、魏・晋制の短里は人の歩幅を基準に建造物を測るのに適用したためだった。魏志倭人伝にいう「東南至奴国百里」は距離なので長里で5~6㎞、「大作冢徑百餘歩」とされる卑弥呼の墓は建造物なので短里で差し渡し90m前後ということになる。
魏志倭人伝の旅程記事 すべてが正しいと信じて所在地を探る方法もあるが、「行くに前人を見ず」というのはよほど未開の林野を行ったのであろう。倭の人々は帯方郡使に首都の所在地を遠方に思わせるか、防衛のために故意に道なき道を遠回りしたとも考えられる。実際、江戸時代でさえ幕府の官吏は唐津に上陸した朝鮮国使節を真っ直ぐ江戸に案内せず、北陸や紀伊を迂回し、首都が遠方にあると思わせようとした。筆者は「邪馬臺」をヤマ(山=聖地)にある臺=貴人の館、王宮と解釈するので、旅程で場所は特定できないと考えている。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

編年(1)編年(3) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。