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史の朋輩(5) [序叙]

 事実として、前漢の高祖から武帝の元封年間(前110~105)まで、班固は『史記』の記述をそのまま襲った。以後の記述は賈逵、劉歆の著作を援用し、かつ班彪の『史記後伝』にも依拠している。表と天文志は班昭と馬融が補った。班固自身の作になるのは古今人表のみでしかない。ゆえに、のちの史学者から、剽窃ではないか、とする批判がある。
 なるほど、この指摘は正しい。
 しかし、それでもなお評価は覆らない。
 何となればそれは、本紀、表、志、列伝という史書の体裁を確立した天才的編纂者であることを、誰もが認めているからである。
 『三国志』を著した陳寿は『魏書』『魏略』『魏尚書』『魏氏春秋』『漢晋春秋』『呉書』『呉録』『蜀記』などを盛んに引用した。彼の場合、自らは蜀こそ漢王朝の天命を受け継ぐ正統であると考えていたにもかかわらず、後漢朝を簒奪した魏朝の事跡を繕いつつ記述しなければならなかった。
 かつ、現在の禄を食んでいるのは、その魏朝から禅譲の手続きで王権を手にした司馬氏の晋王朝であった。そうした複雑な事情と記事に登場する人々の子や孫が生存している同時代史を描く困難を陳寿は背負っていた。
 『後漢書』を書いた范曄は、自身の作を「天下の奇作」と評しているが、実態は『後漢紀』『東観漢記』『続漢書』『後漢南記』を襲った。ことに班固が勅命で著わした後漢光武帝紀、華嶠の筆になる『後漢書』を剽窃し、しかも晋の司馬彪が残した八志三十巻を付した。そのことが、後世の史家から厳しく咎められている。
 史書とは、剽窃で成り立つ、とさえ言っていい。ただしそこには、編纂者の視点が貫かれていなければならず、そうであればこそ二千年の時を超えて史家が論争を交わす。
 再び本多の文章。
 荀彧はもと後漢の臣、曹操の参謀としてよく働いたが、曹操が九錫(人臣として最高の権力を示す褒美)を受けようとするにいたってこれに反対したため、曹操の怒をかい、憂いによって死んだ人である。『三国志』荀彧伝の終わりに「憂を以て薨ず。時に年五十。
 謚して敬侯と曰う。明年、太祖遂に魏公となる」とある。最後の一句は普通ならば、不必要であるが、これで荀彧が死に至るまで漢朝のために曹操の野心を阻んでいたことを示すとともに、曹操がいかに簒奪に汲としていたかを物語る。

 むろんこの弁論は紀元前に生きた司馬遷の耳に届くわけではなく、唐の時代の劉知機の知るところでもない。のだが、時を超えて論をたたかわすのは史家の常であるらしい。
 コンピュータの歴史については、他に優れた書籍がある。IT産業の企業や個人に焦点を絞った伝記は、それぞれが各々にまとめるに違いない。
 それが名誉欲であるか、多少の宣伝を伴った自己満足であるか――にかかわらず、個々において意義があり、それなりの価値がある。そうした先行の書を大いに参照し、検証のうえで引用し、有機的に組み合わせる方法も許されるであろう。

【補注】


陳寿 ちん・じゅ/233~297。字「承祚」。巴西安漢(現四川省)に生まれた。父は蜀の馬謖の参謀、師は譙周(蜀が魏に降伏したとき蜀王朝側の代表となった)。このため魏が滅ぶまで登用されることがなかった。魏のあとに王朝を開いた晋の空司(三公の一)張華がその才を認め佐著作郎、次いで著作郎(史書を司る)に任じた。このとき魏・呉・蜀の歴史書『三国志』を著した。張華は『三国志』を高く評価して陳寿を中書郎(詔書)を作成する官)に推挙したが、出自が災いして御史治書(官吏の不正を弾劾する)にとどまった。のち誹謗中傷にあって中央官界から遠のき、太子中庶子(皇太子宮執事)に任じられたが就任せず没した。
范曄 はん・よう/398~445。晋の豫章郡(江西省)太守・范寧の孫、范泰の第四子として生まれ、宋朝で尚書吏部郎(人事担当官)となった。元嘉元年(424)宣城郡太守となり、赴任中に『後漢書』を著したとされる。のち中央政界に復帰して政府の機密に携わったが、劉義康を擁立した謀反に加わったとして公開処刑された。

タグ:陳壽 范曄
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