SSブログ

書紀(3) [序叙]

 これを見ると、だれでも身構える。大学で国文学か中国文学ないし仏教を専攻した人、中国と取引きをしている人ならともかく、これほどの漢字の羅列に出会うことは、日常、まずない。 種々の修飾を外して現代文に訳すと、
 〔太古の昔、天と地がいまだ分かれず、陽と陰すら定かでなかったとき、ニワトリの玉子を掻き回したような混沌とした中に、わずかながら兆しが見え始めた〕
 ということになる。
 個々の解釈は、とりあえず度外視していい。
 全体を見たとき、5文字のフレーズが多いことに気がつく。中国の詩文の形式を踏んでいる。これがもととなって、倭語(原日本語)の一音に漢字一文字を当てる表現形式、すなわち「万葉仮名」が生れていく。
 この列島における漢字は、最初は中国大陸や朝鮮半島から渡来した識字者の特殊な専門技術であり、それを使うことができるのは王者にほかならなかった。中国華北の言葉が流れ込んできた3世紀まで、この列島の王者にとって、漢字は意匠化された図形に過ぎなかった。
 中国江南の音が主流となった5世紀のころ、王の近くに仕える人々はようやくその意味を理解した。この時点で権力中枢は自己の意思を表わす手段を得た。ただしそれは借り物に過ぎず、文字を巧みに操るのは特殊技能ですらあった。
 一方、中国の言葉も長い歴史の中で変化した。五胡十六国が興亡する中で、漢民族が驚きをもって怖れたのは、あろうことか胡族が学問をし、芸術を創出したことだった。日本の中宮寺や広隆寺に残る半苛思惟像は、明らかに北魏と呼ばれた蛮夷の帝国からもたらされた。文字を知る階層は着実に裾野を広げた。
 そのことに最も貢献したのは経典であろう。
 経典は北魏から高句麗にもたらされ、新羅や百済を経てこの列島に入ってきた。次に大陸に統一帝国が誕生するに及んで、より洗練された唐の音が東北アジア地域の標準となった。8世紀にいたって、この列島の人々は万葉仮名で初めて「表現」を獲得した。漢字は権力の道具でなく、教養になった。

【補注】


中国華北の言葉 漢時代の中国宮廷語。その発音は「上古音」と称され、後漢の永元十二年(100)に許慎が著わした辞書『説文解字』がその基準となっている。古文献で判明する限り、紀元前から紀元3世紀まで、日本列島の王権は朝鮮半島経由で中国王朝と交渉したため、華北訛りが入った上古音が流入した。「行」を〔ギョウ〕と発音するのは上古音である。
中国江南の音 南北時代の南朝の中国宮廷語。「中古音」。晋が滅びたあと、華北が五胡十六国の興亡を繰り返し、隋が全土を統一するまで(4~6世紀)、日本列島の王権は中国江南の王朝と関係を持った。中古音では「行」を〔コウ〕と発音する。また江南地方特有の音(訛り)も入ってきた。「梅」を〔メイ〕(上古音では〔バイ〕)、「馬」を〔マ〕(同〔バ〕)と発音する類である。ちなみに五世紀までの日本人は「m」で始まる単語をうまく発声できなかった。唇をいったん閉ざしてから「n」を付けた。このために「梅」は〔nメイ〕(ウメ)、「馬」は〔nマ〕(ウマ)になった。
唐の音 隋が全土を統一し唐が長期にわたって栄えた7世紀から10世紀にかけて、長安で使われた標準語。華北音と江南音が融合し、初めて統一的な発音が成立した。これを「唐音」と呼ぶ。わが国には遣唐使に随行した学生たちが習得してもたらした。「行」を〔アン〕と発音するのは唐音である。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

書紀(2)書紀(4) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。