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書紀(4) [序叙]

 『書紀』巻第一「神世上」初段は次のように読むとされている。  古(いにし)へ天地(あめつち)いまだ剖(わか)れず、陰陽(めを)分かれざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、溟涬(ほのか)に牙(きざし)を含めり。其れ清明(すみあきらか)なる者は、薄靡(たなび)きて天と爲り、重く濁れる者は淹滞(つつ)いて地と爲るに及びて、精(くは)しく妙なるが合へるは搏(むらが)り易く、重く濁れるが凝りたるは竭(かたま)り難し。故、天が先づ成りて、而して地が後に定まる。然して後、神聖(かみ)、其の中に生(あ)れます。故曰はく開闢(あめつちひら)くる初めに、洲壌(つちくに)の浮れ漂へること、譬へば游魚(あそぶいを)の水上に浮かけるが猶(ごと)し。于時(とき)に天地の中に一物生れり。状(かたち)は葦牙(あしかび)の如し。便(すなは)ち神と化為(な)る。

 漢字の一々にルビを振らなければ、読みこなすのは容易でない。といってルビだらけでは、そのたびにつかえてスムーズに読み進むことができない。まして「溟涬」「薄靡」「淹滞」「洲壤」など、見なれない熟語が登場し、独特の訓が当てられている。
 たいていの人はこれでへこたれる。
 以上のような読み下しがほぼ固まったのは、上程から1世紀を経た平安初期の弘仁年間(810~824)であったとされる。山背国乙訓の地に遷都したのをおりに、位階を襲うべき中央貴族子弟の教養として書紀が講義された。
 平安京に即位しながら自ら「平城」を号した天皇が登場したように、温故知新ないし保守回帰の風潮が底流にあった。
 このとき学寮博士であった多人長という人物が、ことさらに難解な訓読を振った。漢籍、詩歌、古韻に通じた博識であったには違いないが、権威主義的で保守的、かつ自家中心的な人物であったのかもしれない。
 文学史ないし言語史の観点で『日本書紀』は、「大和言葉」の発生過程を研究するうえで非常に興味深い。原日本語が人々の記憶から忘れ去られ、四六駢儷調の漢文が難解であったので、このような独特の訓読が割り当てられた。
 現存する『日本書紀』の写本(ト部家本、熱田本、伊勢本、北野本など)のすべてに、訓読の仕方を教示した痕跡が残っている。幕末維新の開明者が、西洋からもたらされた書物にカタカナのルビを振ったように、平安・鎌倉の人々にとって原日本語は外国語に等しかった。

【補注】


文字を以って仕えた氏族 史氏が代表的。『古事記」の編纂に当たったとされる太氏(多氏)は、どうやら歌謡の家だったらしいが、諸家に伝わる古謡・古伝を蒐集するうち、文字博士の地位に準じることになった。『記紀』によれば応神天皇のとき漢字博士・王仁が渡来し、文字を伝えたとされる。応神天皇が実在の天皇であるかどうかは別として、おおむね紀元4世紀前半のことと類推される。ただし紀元1世紀前半においても「漢委奴國王」印や3世紀「親魏倭王」印が舶載されており、ことに邪馬臺国が魏朝皇帝に親書を送っていることから、4世紀以前に漢字が伝来していたことは疑いを得ない。
温故知新・保守回帰の風潮 平安遷都(794)以後、『古語拾遺』(斎部広成、807)、『新撰氏姓録』(万多親王ら、813)、『内裏式』(藤原冬嗣ら、820)などが著わされた。その風潮を決定的にしたのは大同四年(809)に始まった平城宮の再建、平城上皇の平城転居である。この風潮の中で起こった薬子の変もまた、急速に変化する時代に対する抵抗の一つだった。

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