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千年の時空(2) [序叙]

 やがて世の中が平穏になったので街道というものが整備された。十返舎一九によると、江戸の日本橋から京都の三条大橋まで492キロを往くには13泊14日が平均とされた。このことからすると、17、18世紀における文化の速さは時速1.5キロ弱であった。
 歩くこと以上に大きな役割を果たしたもうひとつは海流である。
 太平洋の南西海域に発した黒潮は、フィリピン諸島から台湾島を経て沖縄・奄美諸島を北上し、日本列島の九州に到達する。しかるのち四国沖を通過して一気に房総半島まで走る。あるいは中国大陸に沿って北上する暖流は山東半島で向きを東に変え、直進して五島列島を経て対馬海峡から日本海に抜ける。
 海の道が文化を伝えた。
 その速度はおよそ時速4キロである。ただしそれは風まかせ、波まかせであって、意思に基づいた移動の手段としては歩くという行為に敵わなかった。
 こうした時間と速度を質的に変えたのは、機械仕掛けの動力が登場したことによっている。イギリスの18世紀末、ジェームス・ワットが密閉シリンダ式の蒸気機関を発明した結果、ここに動力の革命が起こった。
 次いでリチャード・トレイビシックが蒸気機関と車輪とを結びつけ、これをジョージ・スチーブンソンが改良して大勢の人や荷物を乗せて運ぶ方法を生み出した。
 初めて日本人の手によって太平洋を横断した蒸気船「咸臨丸」は、三浦半島の浦賀港からサンフランシスコ港まで片道8450キロに約40日を要している。厳密にいうと往路は37日、帰路は35日――ハワイで過ごした5日間の休暇を加えると40日――であった。その時速は、9キロ弱ということになる。
 ――たかが、2倍なっただけではないか。
 という見方をする限り、社会・経済を論じることはできない。
 重要なのは、物理的な速度という以外のことだ。それまで到達が不可能だった未知の世界と往来ができた。数か月前の人が、数か月後に全く別人になって帰ってくる、ということであった。
 それは1969年(昭和四十四)に初めて人類が月面に降り立った以上に衝撃的な出来事だった。物理的な速度が、質的な変化につながることを咸臨丸は証明した。
 陸上交通においては、東京・汐留と横浜・関内を結ぶ日本初の陸蒸気が1873年(明治六)に開通した。その主な目的は、築地にあった外国人居留地と横浜の居留地を短時間に結ぶことにあった。

【補注】


文化を伝える道 車輪駆動の交通手段に慣れている現代人は平地を伝って移動するが、二足歩行の時代は山越え、川沿いが最短・最良の道だった。実際、徳川の時代に入っても東海道には海浜が含まれていた。昭和四十年以前の時代劇映画で旅姿の人々が砂浜を歩いている場面は時代考証においては正確である。
黒潮 フィリピンのルソン島東方から日本の太平洋沿岸を経て房総半島沖までの暖流を指す。正式名称は「日本海流」。他の海域と比べ濃い群青であることからこの名が付けられた。海域により差異があるが、幅は七十~百㎞、水深一千~二千m、速度は時速四~七㎞とされる。この支流が沖縄諸島の北側を通り、五島列島沖を経て対馬海峡を走っている。
神津島の黒曜石 1999年、沼津市足高西洞で紀元前3万年~1万年前の旧石器遺跡が発掘され、黒曜石の石器が出土した。蛍光X線分析によって神津島産の黒曜石であることが判明した。近隣の遺跡から出土した黒曜石石器も神津島産という同定結果が得られている。同じように長野県茅野市の尖石遺跡で採掘された黒曜石は関東地方に広く搬送されていた。

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