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千年の時空(4) [序叙]

 古代においても非接触型の情報伝達手段があった。ただし音が届く範囲、煙が見える範囲に限られた。つまり「有視界通信」だった。この方法は19世紀中葉まで、最も早い情報伝達の手段だった。 

 江戸時代、大阪・堂島の米相場は手旗と提灯で全国に伝えられた。情報を迅速に伝えるには、膨大な人手がかかった。
 世界で初めて通信の仕組みを作ったのは、モンゴル民族であったとされている。この草原の民は12世紀の当時、諸部族を糾合しても総人口は200万人に満たなかった。兵はわずか25万に過ぎない。それがつむじ風のごとくに起こって2000万人の漢民族を支配し、さらに遠征してウラル山脈を越える大帝国を築き上げた。
 現在もゴビ砂漠に点々と風化して残る烽火台は直線をなし、そこから立ち上る煙の色によって火急万一の事態を知らせることができた。

 1873年(明治六)にモールスが電信装置を、1876年(明治九)にベルが電話装置をそれぞれ開発し、またたく間に無視界通信が実用化されていった。日本に電信機がもたらされたのは、嘉永七年(1864)である。
 日米和親条約が結ばれた際、アメリカ東インド艦隊提督のペリーが幕府に贈り、いまも東京湾に残るお台場で実演が行われた。明治十九年(1877)の西南の役のとき、政府軍は電信機で互いに連絡し合い、薩軍の動きを伝え合って西郷隆盛が潜む洞穴を発見することに成功した。
 一方の電話は、ベルが第一号機を発明した翌年、早くも3台の装置が明治政府にもたらされ、まず治安維持用に警察の専用で実用化された。民間の利用に供されるようになったのは明治二十三年(1890)である。東京と横浜および、両都市間で343人の契約をもって電話交換事業がスタートした。

【補注】


蒙古族の情報伝達システム 中国大陸からヨーロッパにまたがる総面積約八百万平方キロメートルのモンゴル帝国を開いたチンギス=ハン(ハンは古代モンゴル語の「大王」の称号)は「烽火台」のほかに「駅站制」を整えた。ほぼ五十㎞ごとに設けられた「駅」にはつねに騎馬隊が駐屯し、五㎞間隔で建てられた兵舎を通じて公文書が伝奏された。火急の知らせは烽火によって三日内に全土に伝えられ、公文書は七日間で伝奏されたという。


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